ポジショントークというものがある。
何かについて意見を言うときに、客観的な視点からみて正しいと思うことではなく、自分自身の所属する業界や組織、役職といったポジション(立ち位置)にとって有利な主張をするのがポジショントークで、ビジネスの世界は勿論のこと、日常の至るところに溢れ返っている。意見の対立というのは、主義・信条の対立もあれば、感情的な諍いも、明確な優劣が定まっている論争もあり、本当に様々だが、実はお互いがポジショントークをしているだけの場合も少なくない。そんな訳で、要するに「どこにでもある」のがポジショントークなのだが、中でもとりわけ多くのポジショントークが飛び交う分野の1つは経済学(街角経済学を含む)ではないかと思っている。まあでも、それも当然だ。この言葉の生い立ちは、そもそも金融市場なのだから。
さて、そんな経済学だが、日本国内の目下の話題といえば、やはりアベノミクスではないだろうか。本年4月末時点でみても、日経平均株価は13,000円台後半まで回復。円相場も1ドル100円近くまで下がってきた。安倍総理の就任以降、本日までの約4ヶ月間に起きたこの流れは本当に凄まじい勢いで、これに乗じてか、私が日々お世話になっている書店の平積みもアベノミクス関連本で賑わっている。賛成派(いわゆるリフレ派)、反対派(反リフレ派)の双方が、ここぞとばかりに自説のアピールと敵対する陣営の論駁に躍起になっている感じだ。
一方、街角経済学の方も、この4ヶ月に対する賛否は様々なのではないだろうか。株高で財布が潤った人もいれば、不動産価格の高騰によって「夢のマイホーム」が本当に夢になってしまうことを恐れている人もいるだろう。円安の影響で、ゴールデンウィークの海外旅行で使える予算が減ってしまったと嘆く人がいる一方で、地方旅館の女将さんはきっと、外国人観光客の足並みが戻ってくるのを待ちわびている。経営者にしても、大手メーカーと牛丼チェーンでは、円相場に対する評価も違うはずだ。
結局のところ、経済のトピックに触れる際は、「ある程度のポジショントークは、常に存在する」ということを、頭に入れておく必要があるのかもしれない。もっと言えば、「むしろ、それが経済学というものなのかな」という気がしないでもない。特に、現在のような大きな潮目の変化が起きている時には。(そういえば成毛眞も「経済学は、科学ではないのかもしれない」と言っていたが、その理由の1つは、こういう部分にもあるのかもしれない。)
でも、それでも心に引っ掛かりが残る。
ポジショントークを排して、素直に日本経済を眺めてみることはできないものだろうか。
少々前置きが長くなってしまったが、そんな思いに応えてくれるのが、本書である。
本書には、非常に多くの図表データが登場する。その数、300ページの新書にして68個。それぞれの作りも非常にシンプルで分かりやすく、書店でパラパラとページを繰って、目に留まった図表を眺めているだけでも、多くの示唆が得られるはずだ。「ポジショントークしなくても、必要なことはデータが語ってくれている」、そんな著者の想いがビシビシと伝わってくる。そしてまた、本書が取り上げている幾つかのデータ自体も、非常に刺激的なのだ。68個の図表データから浮かび上がってくる日本経済の今の姿。それこそが本書の最大のテーマだ。アベノミクスに対する考察も、本書の重要な軸になっているが、本書が何よりも重視しているのは、「データが示す日本」を素直に読み解くことであり、いわゆる「アベノミクス関連本」とは、様々な意味で一線を画している。
本書における著者のメッセージは明快であり、本書のタイトルにある通り、「日本の景気は賃金が決める」ということだ。でも、「賃金が決める」とは、具体的にどういうことだろうか。誰の賃金が、どのようになれば、景気は好転するのだろうか。いや待てよ。「賃金が景気を決める」と言うけれど、そもそも、景気がいいから賃金が上がるんじゃなかったか。そういう自然な問いに努めて客観的に答えるために、本書には68個もの多様な図表データが用意されているのだ。
例えば、限界消費性向という指標がある。追加で所得が増えた時に、どの程度を消費に回すかを示すものだ。このデータを『平成24年版労働経済白書』でみると、年収300万円未満の勤労者世帯では、85%を消費に回すのに対して、年収1,000万円以上になると、52%でしかないそうだ。低所得世帯ほど貯蓄する余裕がないというのは感覚的にも理解できるが、データで明確に示されると、インパクトは大きい。
一方で、日本において所得格差が拡大している事実も、具体的なデータで示されている。全体の所得のうち、最も所得の低い2割の世帯に配分される比率をみると、1993年には10.6%だったのが、2008年には5.3%にまで低下している。一方、最も所得の高い2割の世帯への配分率は、1993年の35.7%に対して、2008年だと43.7%にもなっている。この20年間で、所得の配分は「低所得世帯から高所得世帯へ」と明らかにシフトしているのだ。1998年に始まった賃金デフレ(総賃金の低下)が今も継続していることを考えれば、低所得世帯にとって、非常に厳しい流れが続いていることになる。
限界消費性向と、所得格差の拡大。この2つを組み合わせると、ある事実が浮き彫りになってくる。つまり、所得格差の拡大によって、貯蓄せずにカネを使う(景気に対する貢献度の高い)低所得層に対して、相対的にお金が回らなくなったことで、日本国内の消費低迷に拍車がかかり、デフレ不況が深刻化したのだ。この点は、具体的な数字に落とし込んでみると、更に分かりやすい。
仮に三兆円をばらまくとすると、年収1000万円以上の世帯に渡すより、年収300万円未満の世帯に渡すほうが、一兆円多く消費に使われる計算になります。
日本が不況を脱するために真に解消すべき課題は、所得格差の是正だ。アベノミクスが景気を回復させるか否かは、所得(主に賃金)格差の是正を通じて、国内の消費を喚起できるかどうかにかかっている。著者はシンプルに、そう考える。ただ、これだけで終わらないのが本書の真骨頂だ。それならば、日本の賃金格差はどのような構造になっているのか。割を食っているのは、具体的に誰なのか。そして、なぜ格差は拡大したのか。具体的なデータを通じて、著者は分析を進めていく。ここが非常に読み応えのあるポイントだ。
結論を先に書いてしまうと、本書の序章において端的に示されている。
ある視点からみて、日本の賃金格差は先進国でいちばん大きいといえます。
典型的なパターンを示すと、「男性で、大企業に就職して、正規雇用のかたちで、長年働いている人」は、高い賃金(所得)を得ます。ところが、この“男・大・正・長”のどれかの条件が外れると、いきなり、主要先進国中でいちばん落差が大きな(ワーストといえる)賃金格差に直面します。
これを裏返せば、女性、中小企業、非正規雇用、短期間勤続(代表的なのは若手)が、相対的に低賃金を強いられているということだ。いずれも、なんとなく理解できる事実かもしれないが、データを明確に突きつけられると、なかなか衝撃的なレベルの格差が生じている。
まずは女性だ。日本では、女性の賃金は男性よりも約3割も低い(フルタイムの労働者のうち、中位所得者の賃金での比較、2008年)。男性優位の傾向は他の先進国も同じだが、男女の差はアメリカやイギリスで2割程度、フランスではわずか12.0%だ。男性の正規雇用だと、年齢に応じて賃金は上がっていくものだが、平均的な女性の場合、40代以降になると、統計上は正規雇用でも賃金が伸びないのが実態だ。
企業規模別の賃金格差も非常に大きい。社員1,000人以上の企業(いわゆる大企業)の賃金を100とすると、社員が100人以上(~999人)の企業で75.6、社員30人以上(~99人)の企業で61.9、更に社員が5人以上(~29人)になると、わずか51.2だ。零細企業になると、大企業の5割程度しか賃金をもらえない計算になる。国際比較をしてみても、このギャップは、例えばアメリカやドイツよりも大きい。そもそも、企業規模と賃金との相関は必ずしも世界の常識ではないようで、イギリスとスウェーデンは、大企業よりも中小企業の方が、平均的に高い賃金を得られるそうだ。日本人の感覚からは、俄かには信じられない話だが、要するに「日本人の感覚」というものが、ある種の非常識なのだろう。
続いて雇用形態だ。本書では、「一般(フルタイム)/短時間(パートタイム)」、「男性/女性」、「正規/非正規」の3つで属性を分類して、それぞれの賃金を比較したデータが紹介されている。これによると、一般・正規(男)の賃金を100とした場合、一般・非正規(男)で既に58しかない。ここに性別の要素を加えると、一般・正規(女)で72、一般・非正規(女)では43となってしまう。つまり、男女共に、非正規は正規の6割弱しか賃金をもらえないのだ。「同一労働、同一賃金」の原則は、少なくとも今の日本には存在しない。
そして、ラストは勤続年数だ。勤続1~5年の賃金を100とすると、勤続15~19年で144.5。この時点で、賃金は4割近く増えているが、これが勤続30年以上になると、なんと193.0だ。勤続30年といえば、当然ながら50代以上の高齢層。この層は、入社してまだ日が浅い若手と比べると、2倍近い賃金を受け取っている計算になる。日本の雇用体系は年功序列と今でもよく言われるが、確かに国際的にみてもこのギャップは異常なレベルであり、例えばフランスでは、勤続15年を越えてくると、以降は賃金格差が全く見られない。そして、その水準も、勤続1~5年の社員より2割ほど多いだけだ。
本書のように具体的な数字で語られると、日本社会の所得格差構造が改めてよく見えてくる。世界的にみても、ある意味では異常な格差社会。その根幹にあるのは、極めて差別的で歪んだ労働環境なのだ。日本社会においては、こうした雇用問題に対する主要な論客の多くがそもそも「男・大・正・長」だというポジショントーク・バイアスもあって、なかなか本質に踏み込んだ議論が起こりづらい側面もあるが、データを見れば一目瞭然だ。そして、現在の日本における賃金格差が、少なくとも他の主要先進国レベルにまで是正されれば、GDPに占める消費の割合が増大し、内需の回復へと繋がっていく可能性も見えてくるはずだ。
安倍政権、そして黒田日銀は今、年率2%のインフレを政策目標に据えているが、真のゴールはインフレではない。賃金が増えずに物価のみが上がれば、待っているのは困窮だ。本当に求められているのは、当然ながら景気の回復であり、つまりはインフレ率を上回る賃金の増加だ。その時、誰の賃金が上がれば、日本は復活できるのか。本書の回答は、もう明らかだろう。「女・小・非・短」の賃金を回復させることによって、まずは格差是正の流れを作り出す。その結果として景気が回復すれば、日本全体のパイが増大し、最終的には高所得世帯(「男・大・正・長」)もメリットを享受できる。格差問題は、ゼロサム環境では奪い合いだが、プラスサム環境ではもう少し違ったものになるはずだ。
いずれにせよ、アベノミクスに一喜一憂する前に、本書を読んでおいても損はないはずだ。
まずは日本社会のリアルな実像、「日本のそもそも」を見つめ直すことから。
ポジショントークは、一旦脇に置いてみて。
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吉本佳生氏を一躍有名にした著作といえば、やはり本書だろう。生活者の視点で分かりやすく経済を語ることにかけては、吉本氏の右に出る者はいないのではないかという気がする。ただ私、スタバではいつもショートサイズのブレンドです。。。
『日本の景気は賃金が決める』の兄弟書ともいうべき吉本氏の前著。本書の内容に関する大きな観点でのサマリーが、『日本の景気は賃金が決める』の第2章において整理されている。
未読なのだが、ずっと頭の片隅に置いてある1冊。ちなみに本書第6章のタイトルは「デフレの鍵は賃金」だ。名目賃金の変化等に着目しながら読み解くデフレ論とくれば、やはり興味は尽きない。