キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書) (2011/02/09) 佐々木 俊尚 |
22年勤めた事務所を辞めて独立し、二足の草鞋の替えのほうだった書評が本職となって3年が経った。最初の年、依頼された仕事はできるだけ引き受けることにした。専門学校の講師をしたり、通信講座の添削や小説のプロットを考えたり、個人史をまとめるのを手伝ったりもした。書評もメインのノンフィクションだけでなく、いろいろなものを紹介した。自信をもって言えるのは、全部間違いなく面白い、と思った作品しか書かなかったということだ。ただひとつ、小説の下読みだけは最小限にさせてもらった。書評家の最大の収入源であることは重々分かっていたけれど、時間を惜しんでのことである。
電子書籍元年といわれた去年、漠然と頭に浮かんだことがある。もうちょっと有機的は書評ができないだろうか、一作の評価でなく、あるいはひとりの評価でなく、誰かとつながりで本の紹介ができないだろうか。と。
実現したひとつは藤田香織との書評対談だった。徳間書店のPR誌「本とも」での連載は1年続いた。ガーリーな藤田と私では読書傾向がまるで違う。正直、この小説のどこが面白い?と詰め寄ることもあったが、本の読み方はひとそれぞれで、そんな読み方もあるのか、と驚きもした。知らない新人の小説もいっぱい読んで希望も絶望も持った。
もうひとつが、成毛眞の「本のキュレーター勉強会」への参加である。これはまだ始まったばかりだから、どうなるかは分からない。ただ、無性に面白い。絶大な人気を誇る成毛眞の看板のもと、いろいろな実験が出来そうだ。実際、初回のミーティングのときに話に出た本を、参加者がそれぞれのブログで紹介したら、一時的にアマゾンで品切れになり、マーケットプレイスで15000円の値段が付いたのには驚いた。
『キュレーションの時代―「つながり」の情報革命が始まる』を読んで、私の感覚は間違っていなかったのだと確信を持った。本書はキュレーションと馴染みが深い美術の話から始まる。アウトサイダーアートという、本人が才能に気づかない画家や彫刻家をどのように外に紹介するのか、というのはキュレーターの腕の見せ所である。本書でも、ジョゼフ・ヨアキムやグランマ・モーゼス、ヘンリー・ダーガーなどを例にとり、その売り出した人たちの物語を熱く語る。
人々の趣味や好みが細分化され、高度成長期のような一億人がすべて同じ夢をみることはなくなった。しかし、だからこそ個々の欲望には貪欲で、総マニア時代といってもいい。類は友を呼び、蛇の道はヘビが知る。友の集まるところ、ヘビの通る道を佐々木は「ビオトープ」と呼び、それを探し出し、利用するのがキュレーションのひとつの方法であるという。
この10年ほどのあいだでの流行廃りを、このキュレーションという見方で切れば、なるほど、そういうことであったのかとうなずける。付いていくのに必死で、まだ勝手のよく分からないツイッターやフェイスブックの利用法も可能性も、本書を読むと浮かんでくる。
書籍の世界に目を転じれば、直木賞芥川賞は盛り上がっているが、それ以外の賞は存在すら知られていないのに、書店の手書きのポップで売り上げが変わる。「書店員が一番売りたい本」を選ぶ「本屋大賞」がNHKのニュースになる時代になった。豊崎由美や杉江松恋たちが始めた「twitter文学賞」も面白いものになる予感がする。『新潮』の編集長の膨大なツイートは純文学のちょっとしたブームを引き起こした。「ビオトープ」を見つけ、それに流れを作り、結び付けていくこと。キュレーションとは、なんと面白い作業であることか。
漠然と考えていた、あるいは感じていたことを、本書は見事に交通整理してくれた。だからといって、すぐに出来るとは思っていないが、要は心がけ。流れに乗り遅れたくはないけれど、流されたくはない。キュレーションできるアンテナだけは、錆び付かせないようにしなくては。