歌舞伎専門月刊誌「演劇界」の2007年9月号から2012年3月号に連載されていた「歌舞伎、のようなもの」というエッセイを纏めた本だ。じつは年に4冊ほどしか「演劇界」を買わない。お気に入りの俳優が主役の時や、面白そうな特集号のみを買うからだ。(ただし表紙が菊之助だったら無条件で買う)そのため「歌舞伎、のようなもの」はお気に入りのエッセイだったのだが、立ち読みを入れても半分も読んでいなかった。まとめて読めるこの本はまさに、「待ってました!」だった。
とりあえず「雪の夜の直次郎」という一節から引用してみよう。
(直次郎という侍が登場する)『雪暮夜入谷畦道』は(中略)長いドラマの一部であるわけだけど、その長いドラマの中でこの場面がどういう意味をもっているのかといったストーリー的な興味は、私にはあんまりない。詳しくもない。それよりも、舞台の上に江戸の雪の夜の、わびしさと人恋しさが入り混じった風情に、妙に惹かれるのだ。
と、著者は呟く。そして、直次郎は実在した御家人であり、ホンモノの直次郎は演じた歌舞伎役者よりもはるかに男前で粋だったという逸話を紹介する。まさにそのとおり。歌舞伎ファンでない人には想像できないかもしれないが、この演目の最大の楽しみは七代目尾上菊五郎などが演ずる直次郎が、雪の夜の蕎麦屋でお銚子を一本付け、かけ蕎麦をたぐるのを見ることなのだ。ストーリーなど二の次。粋と男前の極致。「わびしさと人恋しさが入り混じった風情」。江戸を感じることこそがこの演目の楽しみだと思っている歌舞伎ファンも多いはずだ。
「大胆不敵な演出術」という一節では、ストップモーションの「見得」、ストロボを使った視覚効果のような「飛び六方」、スローモーションのような「だんまり」と共に、動かない役者について感心する。動かない役者とは、主役が何事か重要な演技をしているときに、他の役者全員が気配を消したように身動きも表情も変えずにじっとしていることだ。
私、これ、歌舞伎ならではの大胆不敵な演出術だなあと思っている。映画のカメラワークでいったら、1人の人物をアップで撮ったり、ズームインしたりというのと同じ効果でしょう。(中略)歌舞伎は江戸の昔から、ライティングなしで視線を誘導する工夫をさまざまにこらしていたのだった。
意外にもこのような解説をしてくれる歌舞伎の入門書は少ない。たしかに初めて歌舞伎を見にいったときに感じる違和感や不思議感は、ストーリーや台詞だけでなく演出法にあるのかもしれない。そして、すこし歌舞伎に慣れてしまうと、他の演劇がつまらなくなってしまうほどなのだ。
本書の楽しみは本文だけでなく、達者なイラストにもある。前出の直次郎の1節には「花道の直次郎」というイラストが添えられている。傘にほっかむり、羽織を着て裾を絡げた直次郎が雪の中を歩いてくるというところだ。そのイラストには「どうしても脚に目が行く」とさりげない一言。おっしゃるとおり!70歳になる菊五郎の脚が妙に色っぽいのである。これもまた芸なのだろうが、このあたりも楽しむことこそが歌舞伎なのだというところが本書の面目だ。
ストーリーや俳優を紹介して終わってしまう歌舞伎入門書ではけっして知ることができない本当の歌舞伎の楽しみ方を教えてくれるおススメ本である。
拙著『面白い本』でも紹介したが、この本は本当に素晴らしい。本書『歌舞伎のぐるりノート』も手放しで絶賛している。しかも、付属のリーフレットも紹介している。やっぱり見ているひとは見ているのだ。『面白い本』でもリーフレットは捨てないようにと注意書きを記しておいた。