アマンリゾートに行ったことがある人も、きっと多いのではないか。私にとっては、いつか訪れてみたい場所の一つだ。1988年にタイのプーケット島にオープンした「アマンプリ」に始まり、インドネシアのバリ、スリランカ、フィリピン、ブータン等に展開されているラグジュアリーリゾートホテルは、今や押しも押されぬブランドとなった。本書は、そんなアマンリゾートと創業者のエイドリアン・ゼッカについて書かれた本だ。行ってみたい願望が倍増すること、うけあいである。
とはいえ、本書は単なるリゾート案内本ではない。読み始めてすぐに気づくのは、この本がアジアのラグジュアリーホテル全般について語られたもので、歴史を含めていろいろ知ることができる本だということだ。例えば、エイドリアン・ゼッカがシェアホルダーとして関わった香港の「ザ・リージェントホテル」については、伝説のホテリエ ロバート・バーンズを中心に1章を割き、東急グループ総帥の五島昇との出会いに始まり、イ・アイ・イの高橋治則との交流で締めくくられる盛衰を知ることが出来る(現在は「フォーシーズンズ」ブランドになっている)。それ以外にも、大阪万博のスリランカパビリオンを設計し、アジアのラグジュアリーホテルの建築スタイルを作ったジェフリー・バワ、その後継者と言えるピーター・ミュラーや、バリ島で世界初のブティックリゾートホテル「タンジュンサリ」と別荘地「バトゥジンバ」を始めたウィヤ・ワォルントゥなどの人生について語られている。その「タンジュンサリ」・「バトゥジンバ」には、1960年代後半から80年代にかけて数々の著名人が訪れたという。例えば、デンマークのイングリット女王、ペルシャの前ソラヤ女王、ロスチャイルド、フォード、ロックフェラー、ルパード・マードック、サルバトール・ダリ、ジュリア・ロバーツ。まさに知る人ぞ知るリゾートである。日本では鹿島建設の鹿島昭一元社長が一時期別荘を所有していた。その「カジマハウス」には、スキャンダルやら人間関係やらが書かれた不思議な本が置いてあったそうだ。「さあ、いまはどこにいったでしょうか」
アマンリゾートのマーケティング手法についても本書で垣間見ることができる。新しいホテルがオープンする際には、顧客の許に絵葉書が送られてくる。最初は、たとえば、見事なまでの白砂のビーチの写真で、
もう四週間で、このビーチでおくつろぎいただけます
と書かれている。その一週間後には、
あと三週間後には、この海で泳いでいただけます
という、白いサンゴと赤いサンゴの欠片が入り混じった、ピンク色の砂浜の写真の絵葉書が送られる。次は、
あと二週間後には、この部屋で皆さまにおくつろぎいただけます
というコテージの写真の絵葉書だ。そして翌週には、浜辺のマングローブの木にかけられたハンモックの写真と
あと一週間で、このハンモックを皆さまにお楽しみいただけます
と書かれたものがくる。最期は部屋からの眺めの絵葉書だ。海まで数歩。場所も料金も書かれておらず、ただ1行、
オープンします
アマンリゾートでは、いかなるゲストの要求に対してもノーと言わず、ルールは押し付けない。プールサイドで食事をしたいと言えば、どんな場所でもテーブルをセッティングする。起きるのが遅くなり午後6時になっても、その時が朝食の時間だ。全スタッフがゲストの顔を憶えており、部屋番号も把握しているから、レストランで食事をしてもサインは必要ない。アマンジャンキーと呼ばれるファンが25万人いるという。
創業者エイドリアン・ゼッカは、日本になじみ深い人物だ。兄の奥さんが日本人であることや、京都や熱海などにリゾートを検討したことがあるだけではなく、本人が日本で暮らしたこともある。コロンビア大を卒業後に本国インドネシアでタイム誌通信員となっていたエイドリアンは、スカルノ大統領の第二夫人のスキャンダル記事を書いて国外に追放させられた。1955年、スカルノ大統領が周恩来、ネルー、ナセル等とアジア・アフリカ会議を開催した年のことだ。その後、タイム誌の販売員として日本に2年間滞在し、週末ごとに三浦半島の浜諸磯にある別荘「ミサキハウス」を訪れた。石原慎太郎の『太陽の季節』が映画化されてブームとなった年である。
白いMGMのスポーツカーを持っていました。それでいろいろなところにドライブしたね。当時は車が少なかったからよかった。箱根の富士屋ホテルにも行きましたよ。
エイドリアン・ゼッカは、この別荘での体験をずっと暖め続けて「アマンプリ」を造った、と、長く共に仕事をしたホテルコンサルタントの森に語った。そこは、水辺、崖っぷち、ヴィラであること。私たちは、アマンリゾートの向こうに、懐かしい日本を見ているのかもしれない。
昔の日本にも行ってみたいです。