自分探しもお気楽に行こう! 著者自身のルーツを辿る珍道中、ゆるゆる読んでいただきたい一冊です。
著者の髙橋秀実(ひでみね)氏はノンフィクション作家である。かつてフリーペーパー『R25』でも巻末コラム「結論はまた来週」を担当しており、私も街頭で何気ないタイトルに気を取られて読み進めるうちに、いつの間にか橋ワールドに引き込まれてしまったこともしばしばあった。
「なんてったって、お前は最後のジョウモンだからな。」
「情報」を使いこなす弥生人に取り残された、行き当たりばったりの縄文人タイプの人間・・・・・・。本書での髙橋の先祖探しの旅は、知人の結婚披露宴で同業者からかけられたこの一言から始まる。しかし、それは失われた過去のこと。確たる証拠が見つかるわけでもなく、話はかなり心もとない。
縄文人のルーツを探しに考古学にあたってみれば、一事が万事「今のところ・・・・・・と考えられている」の決まり文句で片付けられ、はぐらかされた気分になる。日本人の半分は藤原鎌足の末裔らしく、著者の九曜星の家紋は「桓武平氏」にもつながり皇族にも通じている、と言えるような、言えないような。家系図を書こうにも、自分の父母に兄弟姉妹とその配偶者、それぞれ父母と兄弟姉妹に配偶者、と遡れば遡るほど、縦、横、内に向かって膨張し、とても平面上には画き切れない。
ご先祖様を辿る上で鍵となってくるのが「苗字」。これは平安時代に武士が地名や職名をもとに名乗り始めたのが起源だとされる。タカハシさんの由来は、古代豪族「高橋氏」の氏を受け継いだ、「高い橋」のあった土地の地名から取られた、天皇の膳臣(食事係)として地味に子孫が増えていった、など諸説あり著者のモヤモヤは募るばかりだ。
そもそもルーツと言えば父系を思い浮かべてしまう、その思想がマッチョなのかもしれない。本書でもたびたび登場する、著者の奥様の歯に衣着せぬものの言い様がコミカルだ。曰く、
「女は生まれ変われるのよ」
「抑圧されているのは男のほうじゃないの?」
「だって苗字は記号に過ぎないでしょ。男のほうがそれに縛られているのよ」
「要するに、女のほうが自由なのよ。」
だそうだ。たしかに、言われてみればそう思えてくる。
結局何が分かったのか。確たることは言えないが、本書を通して感じるのは「つながり」である。祖先を辿ることで、現在に生きる私は過去とつながっている。過去を辿り続ければ現在に生きる我々は皆、血縁や出自の言われで何らかのつながりがある。つながりを感じるとき、我々は安心する。伝統的に、仏壇に手を合わせてお盆に墓参りをすることでご先祖様とのつながりを確認し、法事や冠婚葬祭で親戚縁者や知人が一同に会することで互いのつながりを更新する。
こうして、ソーシャル・ネットワーキング・サービスは、リアルにはいにしえの時代から存在していたのであった。