これは最強の「シャネルN゜5攻略本」である。あえて言おう、必読の書であると。
畏敬を込めて「モンスター」と呼ばれ、30秒に1本、世界の何処かで買われる永遠の名香、シャネルN゜5。そのロングセラーの神話が、ココ シャネルの生い立ち・愛の遍歴を縦糸に、時代・文化のシンボルとなりうる歴史背景を横糸に解き明かされていくストーリー展開は、読み応え抜群。
香水、それこそ一番大事なもの。ポール ヴァレリーの言葉どおり、
お粗末な香水をつけている女性に、未来はないわ
—— ココ シャネル
シャネルN゜5はココ シャネルの化身である。そこには彼女の生い立ち、理想、人生そのものが投影され、その誕生と成長は常に彼女の恋を契機としている。
N゜5の伝説は、孤児院で育ったというココのルーツに始まる。オバジーヌの地の修道院にてエロティックな「雅歌」の瞑想に用いられたアロマの香り、人体を描く黄金比、花・女性を象徴する”5”という数字。「香り – 官能性 – N゜5」は、彼女にとってここで既に分かち難い存在となっている。
貧困と孤児という境遇から抜け出すために選んだ裏社会で、ココは女性の香水選びが人の官能性を表現する上で重要であることを学ぶ。しかし、香りは官能的であり清潔でなければならないとも気付く。矛盾する官能性と清潔感とを両立しうる新たな官能性の表現を求めることは、秘すべき過去や自分の人生と対峙することに他ならない。
香水の誕生にはココの愛の遍歴が付いて回る。香水作りに没頭し始めたのは、愛人ボーイ カペルの事故死による心の傷みを忘れるため。調香師エルネストとココを引き合わせたのもロシア皇太子のディミトリ パヴロヴィッチとの恋愛が契機。すっきりした輪郭でシンプルさが特徴の香水瓶も、ボーイのウィスキー・デカンタからヒントを得ている。
その他、1930年代アメリカ市場での販路拡大にあたってはハリウッド映画界のイラストレータと、大戦時下にはファシスト政権のドイツ将校スパイと恋仲になるなど、色恋沙汰には事欠かない。さすがはシャネルの生みの親、と言うべきか。
(ベッドで纏うのは) シャネルN゜5を数滴
—— マリリン モンロー
本書は、シャネルN゜5がココの単なる化身から、時代・文化を象徴する「モンスター」へと成長する歴史ドキュメンタリーとしても読み応え十分だ。
香水の開発で鍵となる官能性と清潔感。前者は豊潤で甘い香りの上質ジャスミンを惜しみなく用い、後者を表現するために1910年代に発見されて間もない合成香料アルデハイド(通常は日常の洗剤・芳香剤に使用)で表現されている。不朽の香りは新技術なくして実現不可能であった。
信じられないことに、シャネルN゜5は発売当初それらしいマーケティングを行っていない。1925年のパリ万博、装飾芸術(アールデコ)が開花する中でも作為的にシャネルN゜5を展示せず、口コミで世界市場での成功を収める。その背景には、各社の競争品が結果としてN゜5の人気を高めたこと、1920年代のバブル景気の中での最高の贅沢品を求める潮流が挙げられる。
戦時下にあっても、シャネルN゜5の名声は高まる一方だ。パリ市民にとって、生活のささやかな贅沢が恐怖に耐える活力となり、高級香水は不屈の文化的シンボルとなる。密輸により最高級のグラース産ジャスミン原材料を確保し、最高品質を維持した唯一の香水として名声が一層高まる。アメリカ兵にとってはフランスを象徴するおみやげでもあり、兵士の希望と欲望を投影する香水は、個人にとって強烈な意味を与えるものとして存在した。
シャネルN゜5が「モンスター」として非凡の域に踏み出すのは、ポップアート界の巨匠アンディ ウォーホルがシルクスクリーンのモチーフとしてその瓶を選んだことで決定付けられる。戦後アメリカ人中級階級の高級品として、テレビというマスメディア媒体での宣伝で、ついにN゜5は大衆文化を代表する力強い文化的シンボルの地位を確立するに至った。
その他、ココとパルファン シャネル社間のN゜5の所有権を巡る確執と訴訟争い、N゜5をロングセラーたらしめているラグジュアリーマーケティングの手法など、本書は見所が尽きない。
今後、季節柄暑くなるにつれ肌の露出も増えてくる。男女を問わず、本書を通して自分らしい「官能性」の表現を考えてみるのも良いかもしれない。
もっともミステリアスで、もっとも人間らしいのが、匂い。
体が他人とどう調和し合うか、ってこと
—— ココ シャネル