著者の石川九楊(京都精華大学教授)は書家・書道史家である。主著に1991年『書の終焉』(サントリー学芸賞)、2002年『日本書史』(毎日出版文化賞)、2009年『近代書史』(大佛次郎賞)等がある。
本書は四部から成る。「第一部 書とはどういう芸術か」で「書は筆触の芸術」という著者独自の書論が述べられ、第二部から第四部で中国・日本・近代各書史論がまとめられている。「書の全貌を簡便に概観できる欲ばりな書物」を、という著者の目的が適えられた好書だ。
芸術論の愉しさや味わいは、著者が純粋に芸術を論じていても、読み手により人生論・処世訓や自分のルーツ探し等のテーマがアナロジーとして重なって見える点にある。
例えば本書26ページ以降、著者は「書く」行為の含みを説いていく。「かく」は「掻く」「欠く」につながる。つまりいかにそれが残酷でも、人間は自然や対象を傷つけ姿を変えることで生きている。カルチュア=文化は人間の「原罪」とも言う筆者の指摘は、排出取引を巡る議論など活動を自粛しあぐねる人間のサガを想起させる。
第三部では中国文化・漢語の「うつし」と「なぞり」から始まった日本書が、平安初期の「くずし」を経て古今集時代に日本独自の表現段階に突入する様が説き起こされる。ここでは、同じ漢字にも「トン・スー・トン」の終筆できっぱりと決意・決断を示す中国人、「くずし」による優美さを発見した日本人、と両者のお国柄が分かれて現れる。
書道はお習字に非ず。新鮮な気づきを得た私は、先月筆者の講演会(中央公論新社講座「名跡の筆触を読む」)に参加した。「この一点だけ眺めて半日は飽きずに遊べる!」と、黄庭堅「伏波神祠詩巻」の一点一画のドラマについて、氏の嬉々とした解説。古来、不遇の中国政治家が始めることと言えば書や詩であった。黄庭堅の一点一画にも、有無を言わせぬ政治家のスケールが見て取れる。我が国の政治家にも、この気骨と教養は見習えるだろうか。