男子厨房に入らず
この言葉の由来は諸説あるようだが、昔は男性が家庭の台所に立つのはよくないことだと思われていた。しかし月日は流れ、昨今では弁当男子がもてはやされる時代。フェイスブックやブログでも男性のお手製ディナーの写真が並んでいる。男性料理研究家もたくさんいて、かくなるHONZメンバーにも、Allaboutで大人気、5冊も著作を持つ土屋敦がいる。その本職の腕を生かし『ナチスのキッチン』をレビューし、この高額本を増刷に導いたことで、一部有名である。
さて、日本初の男性料理研究家は誰か。本書はその人、牧野哲大さんの料理研究家人生を、お気に入りの生活雑貨とレシピとともに辿った一冊である。
昭和9年、愛知県に生まれた牧野さんは、太平洋戦争中、あちこちに疎開を繰り返した。そのたびに母親が大事に持ち運んでいた紙箱があった。中にはかつて母が愛読していた『少女の友』のふろくのスタイルブックや花模様のレターセットがぎっしりと詰まっていた。
[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=VhXQUskDiAw[/youtube]
「人は人、われはわれなり」が口癖の母親は美しいものが大好き。その影響で牧野さんもきれいなものに目がなくなる。そのころ、イラストレーターの中原惇一を知る。戦時下でも母親が肌身離さず持っていた、あの美しい絵を描いた人だ。牧野さんも自分でアレンジしたおしゃれを楽しみ、まわりからはちょっと浮いた存在だったようだ。
上京し、栄養学校に通いだしたある日、牧野さんは中原惇一の家に電話をかける。
“はじめまして。ぜひ、先生にお目にかかりたいのですが。”
中原は快諾し、喫茶店で落ち合い何時間も語り合う。ウマが合う、というより前世からのつながりのように二人は仲良くなっていく。超多忙な日々を送る中原だが、牧野さんは多くのことを学ぶ。
“口ではなんとでも言えるのだから、お礼の心はすぐに手紙でお伝えなさい。お客様のある時は、玄関と電話まわり、トイレだけはきれいに整えておきなさい。伺った先に何種類ものスリッパがあったら、その日の自分のお洋服に一番似合う色のものを選ばなければだめですよ”
やがて中原の肝いりで、雑誌「ジュニアそれいゆ」で牧野さんの料理ページの連載が始まった。イラストはもちろん中原惇一。それまでの婦人雑誌とは一味違う、カロリー計算や食事をイベントのように扱う企画が受けて、牧野さんの料理研究家人生が始まった。
中原惇一との出会いが運命なら、妻の未左子さんとの出会いも運命である。中原の絵から抜き出てきたような美少女を、牧野さんは見事に射止め、たくさんの持参金を握りしめてヨーロッパにひとりで旅立つ。思いのままあちこちを見て歩き、美しい食器やテーブルクロス、調理器具を買いあさる。
テレビ出演も始まった。トレードマークのエプロンは、最初はNGだったのを強引に身に付けてしまったものだ。その数およそ300枚。チョッキに似せた形のものがお気に入りのようだ。エプロンおじさんの面目躍如、極めた写真が50ポーズ以上。
40代から上の世代は、本書を手に取ると「懐かしい」感じがするに違いない。ちょっと手にベタつくようなビニールのカバー、厚手の紙、少しセピアがかった写真、そして牧野さんのご自宅のシャンデリア。おうちの中にまだ「応接間」があって、手作りのお菓子のおやつをいただく。そういう経験はまったくないのに、かつてそういう生活をしていたような錯覚に陥る。これも昭和の記憶だろうか。
本書は本人の語りおろしであるとともに、レシピ集でもある。ハンバーグやグラタン、カニクリームコロッケ、などおなじみのものばかりなのに、その手順や材料には独得の工夫がされている。サンドイッチが渇いてしまわないように、キャベツの千切りがふんわり乗せられていたり、カレーを食べるためのご飯の色をニンジンを使って赤くしたり、と見た目がなにしろ美しい。
身近な、カツオブシやキャベツを使ってあっと驚く七変化のレシピ。この本は永久保存版に決定。
60歳まで走り続け仕事三昧に生きてきたが、牧野さんも80歳になり「気持ちは32.3歳」だが悠々自適に暮らしている。食欲旺盛、おしゃれも万全、好奇心いっぱいに生きている。
こういうふうに年を取りたい。そのためには、やりたいことはどんどんやろう。とりあえず今晩は、豚肉と白いんげんの煮込みを作る。
本当に偶然なのだが、この本を紹介することに決めた直後、下北沢のB&Bという書店で、著者の高原たまさんと牧野哲大さんのトークショウが開かれることを知った。テレビの語り口そのままに、きっと楽しいお話が聞けるだろう。
http://bookandbeer.com/blog/event/20130316_apron/
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今年は中原惇一生誕100年になる。それを記念して全国巡回展が行われている。
http://www.junichi-nakahara.com/archives/2186
うちのエプロンおじさんの本をちょっとご紹介。