なぜ、「におい」に名前をつけることは困難なのだろうか?
この問いに答えるためには、先ずその困難さを理解する必要がある。においを表す言語的表現を思い起こせば、必ずといっていいほど比喩が付いて回る。コーヒーのようなにおい、腐卵臭、バラの香り。これらは、においに名前をつけたというより、においをもたらす物質を表記したものと言えるだろう。
「刺すようなにおい」や「甘いにおい」のように、触覚や味覚を嗅覚と結びつけることも多い。味覚と嗅覚の結びつきは特に強力で、少なくとも10の言語(英語、ドイツ語、中国語など)には、食物摂取中に生じる味覚と嗅覚の成分を区別する用語は存在しないという。「晴れた日の海の色」や「寒気をもたらす色」と言わなくても、「青」という言葉でその色覚を表現できることを考えると、におい命名の困難さが際立ってくる。本書でにおい知覚が生み出される仕組みを理解すれば、この困難さの原因がよく分かるはずだ。
著者2人は、それぞれ心理学者と神経生物学者である。異なる分野を専門とする2人らしく、本書では心理学、動物行動学、感覚生理学など幅広い分野の先行研究が紹介されている。この一冊でにおい研究の歴史を鳥瞰でき、知覚にまつわる新たな視点を与えてくれる。嗅覚と視覚はどのように異なるのか。人間以外の動物では嗅覚はどのように働いているのか。進化の中で嗅覚はどのような役割を果たしてきたのか。ヒトは世界をどのように知覚しているのか。
膨大な数の論文を引用する本書はやや専門的であり、論理展開が理解しづらい部分もある。しかし、そこにはその難解さを補ってあまりあるほどの知的刺激があるのだ。本書を読み終わるころには、嗅ぎ慣れていたはずのにおいさえ、全く違ったにおいに感じられるに違いない。
書名に「においオブジェクト」とあるように、においは全体的な1つのオブジェクトとして知覚される。そのため、総体としてのにおいがどのような成分によって構成されているかを分析的に知覚することはできない。例えば、コーヒーにはヒトの嗅覚受容体に働きかける数百もの揮発性成分が含まれているが、私たちが知覚するのは総体としてのコーヒーのにおい1つだけであり、そのにおいがどのような要素から成り立っているかを知覚することはないということである。
においは、におい分子が嗅覚受容体に働きかけることでもたらされる。ヒトには嗅覚受容体が1000程度しかないにも関わらず、私たちは1万以上のにおいを区別できるという。これは、嗅覚に関する情報処理が、「単一分子が単一受容体に働きかけ、単一の意味を与える」という単純なものではないことの証左である。私たちは、26しかないアルファベットの組み合わせから無数の単語を形作るように、1000の受容体の反応パターンの組み合わせから1万以上の異なるにおいオブジェクトを形成しているのだ。
アルファベットと単語の組み合わせを比喩として嗅覚情報処理を説明したが、両者には重大な違いがいくつかある。最も大きな違いは、同じアルファベットの組み合わせはいつでも同じ単語を表すが、同じにおい分子の組み合わせが同じにおいオブジェクト知覚をもたらすとは限らないということだ。においオブジェクト知覚は経験依存的であり、過去にどのようにそのにおいを経験したかによって、同じにおい分子でも異なる知覚をもたらすのである。こどもの頃に苦手だったコーヒーのにおいが、大人になって好きになったというとき、変わったのはコーヒーではなく、あなたの方なのである。
全てのにおい分子に対する反応が経験によって変化するわけではない。悠久の進化によって遺伝子に組み込まれたにおい分子は、経験によって変化しない知覚をもたらすことが多い。そのようなにおい分子は、主に繁殖相手の居場所や天敵の存在に関わる情報をもたらす。つまり、嗅覚情報処理には外部刺激に普遍的な処理が行われるモードと刺激に付加的な計算と経験を加えて処理するモードが2つ存在しているということだ(単細胞生物には、より単純な前者のモードのみが備わっている)。
本書には、数百キロ離れた場所の餌のにおいを嗅ぎつける鳥の事例など、ヒトに限らない嗅覚にまつわる実験、研究も数多く紹介されている。サケは住んでいる川のにおいをどれくらい長く覚えていられるか、ソムリエがワインを嗅ぎ分ける能力はどの程度か、生まれ育った国・文化によって嗅覚能力にはどのような差がでるのかなど、大きなストーリーの中に様々な読み所が用意されている。
本書の原題は『Learning to Smell』であり、「嗅覚に関する学問」と「においは学びによってもたらされる」という2つの意味が込められていると思われる。本書からは、世界の見え方がいかに経験に依存しているかが痛感させられた。今嗅いでいるこのにおいは、揮発成分子による単なる化学反応以上の意味を持っている。そのにおいは、今まで嗅いできたにおいの、生きてきた道のりの結晶なのだ。
世界の見え方が経験によって変化する、といのは嗅覚だけに限定されるものではないだろう。読書にも、世界の見方を変える力があると考える。『ご冗談でしょう、ファインマンさん』を読んだ後には、世界はより刺激と喜びに満ちたものに感じられた。これほど顕在的に感じられなくても、直ぐに変化は現れなくても、読書はヒトの内部に確実に働きかけ、世界のとらえかたを一変させる。本書でもたらされる変化は、どのようなものになるだろう。目覚めのコーヒーのにおいを、今までよりも深く味わえるようになることだけは間違いない。
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「よく生きるためには、よい経験が一番だ」という著者の言葉を裏付けるような、興味深い事例が数多く紹介されている。経験によってにおいが変わるように、どんな経験、行動をするかによって心の持ちようも大きく変化する。身体と心の因果関係に関する常識が大きく揺らぐ、幅広いトピックが分かりやすく解説された一冊である。レビューはこちら。
ヒトの五感の中でも特に重要な視覚に関する、驚くべき洞察を与えてくれる2012年マイNo.1の一冊。ヒトにはなぜ目が2つあるのか、エイリアンにはなぜ黒人と白人の区別がつかないのか、刺激的な問いが興味深いファクトを掘り起こし、驚くべき仮説へと繋がっていく。レビューはこちら。
嗅覚の科学について、新書でコンパクトにまとめられた一冊。