新年早々大当たりの一冊。どれくらい面白いのかを生理学的に述べると、体内のテストステロンの濃度が上がり、ヘモグロビンの量が増え、適度なストレスとともにドーパミンが快楽をもたらしたほどだ。と言われたところで、この時点ではなんのこっちゃという感じかもしれないが…
本書における一つの側面は、金融マンのトレーダー取引がありのまま描写されているということである。プロのトレーダーが利益を出したり損失を出したりする様子や、損益が増減されるたびに気分が高揚したり落ち込んだりする様子。そんな、強気市場と弱気市場の大波に翻弄されるトレーダーたちの一挙一動は、世界中の市場に大きな影響をおよぼす。
そしてもう一つの側面が、こうしたふるまいの背後にある生理学的なメカニズムに踏み込んでいるということである。たとえばリーマン・ショックにおいて信じがたいほどのリスクを引き受けることになった時、トレーダーの体内ではどのような化学物質が分泌され、どのように信号が送られていたのか。
著者自身、トレーダーとして働いていた経歴を持つ。バブル期のトレーダーに見られるような過剰な自信は、機会を合理的に評価することで生じたものでも、欲望によって身についたものでもなく、あたかも化学物質によって湧き出たもののように感じられたのだという。
この双方が織りなされ、一つの物語になっている。二つをつなぎ合わせることで、リスクを冒す人たちが人生で重要な瞬間を迎えたときに、脳と身体がどのように働くのかが見えてくるのだ。本書は、そんな金融市場と生物学という、おおよそ縁遠い両者を重ね合わせようと目論んだ一冊である。
生理学と言えば、これまでにもスポーツ分野において盛んに研究が行われてきた。この分野における興味深い研究成果の一つに、「勝者効果」と呼ばれるものがある。ある試合に勝った選手は、次の試合にも勝つ可能性が高いというものだ。この発見から、勝つという行為自体が、さらに次の勝利を収めることに寄与するという可能性が浮き彫りになったのである。
この効果を生み出す要因と目されているのが、人間の体内で生成されるテストステロンと呼ばれる物質である。リスクを冒し、競合に勝利を収めた時、その種の感覚を感じ取らせ、行動に導く特別なステロイドホルモン。それが熱狂の化学物質 - テストステロンだ。
ある時、著者に一つの仮説が思い浮かぶ。
強気市場の時にトレーダーをとらえる幸福感や過剰な自信、リスクへの旺盛な意欲は「勝者効果」として知られる現象からくるものではないか。
トレーダーたちは、いつも時間を制約されており、意思決定や取引の実行においては合理的な意識を迂回し、自動的な反応に頼らなければならない。この特性が、素早い反応を必要とするスポーツ選手の要件にもよく似ていると考えたのだ。
そこで著者は、高頻度取引を行っているトレーダー達を集め、彼らのテストステロンを採集しながら、損益金額を記録するための実験に挑む。すると、テストステロンの濃度と利益との間に確かな相関関係が見つかったのだという。つまり、テストステロンのフィードバックループが金融市場でも作用していると思しき根拠を、読み取ることができたのである。
だが、本当に気になるのはその後だ。ある時点を超えると、トレーダーは自信過剰になり、リスクが危険なほど増大し、自分自身に不利な状況へと陥ってしまうのだ。そしてその状況が長期化することによって、新たな化学物質の出番がやってくる。それが悲観の化学物質 - コルチゾールだ。
危機が長く続くと、副腎皮質と呼ばれる部位から大量のコルチゾールが分泌される。このコルチゾールの濃度が上がると、トレーダーたちは急激に、おそらくは不合理なまでにリスクを回避するようになり、大量の売りが出て、大暴落に陥る可能性も非常に高くなるのだという。
これはある意味、ストレス反応の一種とも言えるそうだ。ストレス反応は、身体と脳が、日々の働きから緊急事態の対応へと即座にスイッチを切り替えるための反応である。人類の長い歴史の中で、たとえば森で切迫した脅威に対応するための機能として発達してきたのだ。森の中では有効だった機能も、舞台をトレーディング・フロアに置き換えると、古くさくてうまく機能しないものに成り下がっているということなのである。
誤解のないように言及しておくと、著者の主張はホルモンが全ての運命を決定づけるというような、原理主義的な物言いでは決してない。ホルモンはあくまでも、ロビー活動のような働きをして、ある種の行動を喚起したり、仕向けたりしているのである。
本書ではこの他にも、「勘」や「情動」など、判断において重要な役割を果たす機能のメカニズムが解説されている。これらの機能はあまりにも本能的で見過ごされがちだが、「脳のインターフェースとしての身体」という観点に着目すると、実にさまざまなことが見えてくるのだ。
昨今、このようなトレーダー取引の大部分は電子化され、トレーディングアルゴリズムと呼ばれるブラックボックスになっているそうだ。しかし人間の身体というブラックボックスの謎の大きさの前には、比べるべくもないだろう。そして、そのディテールこそ解明しきれないものの、ある出来事がトリガーとなって、金融市場そのものが一つの生物のように動いていく様は、まさに圧巻であった。
本書の内容がとても人ごとと思えないのは、このような働きがなにも金融業界に限ったことではないと思えるからだ。ビジネスのいかなる局面においても、リスクを冒すという行為にかかわる以上、誰にでも生物学的な嵐を内面に抱える可能性はある。それが、生理学という視点の強さであると思う。
はたして2013年は僕にとってどんな一年になるのだろうか。そして、それを考えていた時、体内で増えていたのはテストステロンだったのか、コルチゾールだったのか。そんなことに思いを巡らせながら、本稿を終わりにしたい。
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今も記憶に新しい2008年のリーマンショック。何が“百年に一度”の危機を招いたのか。NHKスペシャルでの放送の文庫化。