梅﨑晴光はスポニチの競馬記者である。JRA中央競馬の担当になって20年以上のベテランだ。彼が家族旅行で出かけた沖縄でレンタカーを走らせていた時のことだ。「美ら海水族館」に隣接する備瀬の名所「フクギ並木」近くで道幅が突然広くなり、それが200メートルも続いている場所に出た。地元のおばあさんから無料の駐車場であること、そして戦前は競馬場であったことを教えられて驚いた。沖縄に競馬があった?
競馬記者であると同時に、ライフワークとして沖縄史を調べ三線の弾き手でもある梅﨑にとって、沖縄の競馬は初めて聞く話だ。すぐに図書館で調べてみた。すると、大正時代から太平洋戦争沖縄戦直前まで本島の各地で行われ、馬場は200か所近くあったこと、アブシバレーと呼ばれる旧暦4月に行われる畔払い・虫払いの行事には欠かせないものであったこと、沖縄特産の小型の馬を使ったことなどが、市史や村史のそこかしこに書かれていた。
何より面白いのは、この競馬が速さを競うものではない、ということであった。
ナークー(宮古馬)を中心に、シマジラー(本島島尻産馬)、クミー(久米島産馬)、イヒャー(伊平屋島産馬)、エーマー(八重山馬)など1メートル20センチにも満たない小柄な沖縄在来馬が、200メートル前後の短い直線走路で2頭ずつ足並みの“美しさ”を競った。
馬の後肢や肩先を赤や黄色の生地、花で飾り付け、朱塗りの唐鞍や和鞍に紅白の手綱。騎手は花織柄などの羽織袴に身を包み、紅白のたすき鉢巻き。馬も人もあでやかな衣装で馬場に入ると地区別に紅白二手に分かれ、決勝点(ゴール)に陣取る数人のンマビットゥー(審判)に向かって、2頭で併走しながらブレることなく前後肢を伸ばす。
審判は足並み、飾りつけを総合評価して勝敗を決める。素人ではどちらが勝者かわからないこともあり、フィギュアスケートの戦いさながらであったようだ。
その走り方は独特で、ウチナーグチで「イシバイ」とか「ジーバイ」と呼ばれる細やかでゆったり足の運びを要求される。並足(時速6~7キロ)と早足(時速15キロ前後)の中間くらいで、全力疾走は反則負け。足の運びは「側対歩・アンブル」と呼ばれる右前脚と右後脚、左前脚と左後脚を同時に動かす、人間で言うと「ナンバ走り」をしなければならない。
側対歩で走る馬といえば、毎年、愛馬の日に馬事公苑で行われる母衣引きがある。
この走り方をすると加速しても上下の揺れが少なく水平に進むことができるという。
鞍の上に水を入れた茶碗をおいても、一滴もこぼさないような走り方は芸術的というよりほかに言いようがない。新屋敷幸繁『琉球歴史物語』
美を競う競馬は、世界広しといえども琉球競馬しかないのではないか。このような形になったのは、土地が狭く勾配がきつい沖縄という事情があったのではないか、と推測している。
競馬と言えば、馬券。しかし琉球競馬は金をかける習慣がなく、勝ち馬の馬主や騎手に贈呈されたのも賞金ではなく、ティーサージと呼ばれる華やかな手巾。馬主は金にこだわる必要のない、土地の大金持ちで資産家。優勝で手に入れるものは名誉であった。
対戦は大相撲のように取り組み表に沿った対戦方式で、審判が事前に出場馬の技量を見定めて、下位の取り組みから順に行われ、結びの一番は横綱級同士が戦う。それぞれの土地の年中行事は村落の完全休息日。休日の娯楽として人々は競馬見物を楽しんだ。
競馬場には琉球王家直轄の「真地(マージ)」と呼ばれる馬場で2か所を頂点に、村管轄、集落管轄の3つに分かれた。当然「真地」の競馬は本島全部の関心を呼び、中頭と島尻両区代表による勝負は島を二分した大決戦であった。
資料を調べ、郷土史家や島の古老の話を聞くうちに、一頭の名馬にいきついた。
中頭には“ヨドリ与那嶺小”(ヨドリヨナグニグァ 小は~さんの意味)の“ヒコーキ”という名馬がいる。昭和初期の沖縄神社祭の奉納競馬には、中頭からはヒコーキとトヌバル、島尻は自動車小とマンガタミ馬、双方どっちも負けられない勝負が、平良馬場でくりひろげられた。(中略)優勝の栄冠は中頭のヒコーキに挙がったという。『西原町史』
これをきっかけのように「ヒコーキ」の名は『浦添市史』『宜野湾市史』など本島各地の地誌に「名馬」として取り上げられているのを発見する。持ち主の名は『西原町史』に書かれている“ヨドリ与那嶺小”という屋号だけ。これだけ各地を転戦し優勝している名馬は、果たしてどんな馬だったのか。梅﨑の興味はそこに絞られていく。
地誌に「ヒコーキ」が登場する現場を訪ね歩く旅が始まる。沖縄戦直前まで競馬は行われていたようだが、楽しんだことのある人はたちは相当な高齢になっている。しかしここは沖縄。老人パワーに圧倒される。80年も前の記憶を鮮やかに語る老人たちは、みな元気だ。「あそこへ行けばわかる」「それはこの人なら知っている」と人の輪がつながって、沖縄競馬の隆盛と衰退の原因がわかってくる。サトウキビ栽培が軌道に乗り、砂糖の高騰で裕福になったが、昭和恐慌によってソテツ地獄を味わう。伝染病予防のために馬場が廃止されたり、戦争のために馬の品種改良が強行されたり、と沖縄競馬を取り巻く環境が変わっていく。
細い道をくねくね曲がり集落に入ると、そこには必ず馬場の跡が残っていた。公園になったり、幹線道路になったり、ゴルフ場になったりして残っている。戦後、アメリカ軍の占領下で接収された土地にも馬場があり、今でも基地の滑走路の一部になっている場所もある。「ヒコーキ」という名馬を訪ねる旅は、戦争によって競馬どころか“在来種の絶滅”という悲劇にぶち当たる。小さくて穏やかで、人によく懐く琉球馬はほとんどいない。
ヒコーキマーグワン、コーリヨー
(名馬ヒコーキを買えるぐらい立身出世しなさいよ)
親から子への教えにまでなっていた「ヒコーキ」という名馬への旅は遠かった。八方ふさがりになったときに手がかりとなったのは、飼い主である“ヨドリ与那嶺小”のヨドリという言葉である。琉球大学の言語学者が明らかにしたその意味を手掛かりに、梅﨑はとうとう「ヒコーキ」の飼い主を探し出す。それも、実際「ヒコーキ」をその目で見ていた92歳の娘の証言まで得ることができたのだ。旅のクライマックスは、まさに心躍る結末となった。
ヒコーキは白い馬だったという。ちょうどこの本を読んでいる時に第57回有馬記念が行われ、ゴールドシップが優勝した。芦毛の馬体が駆け抜けていく様子をテレビで見ていて、かつて沖縄きっての名馬と言いならわされた、「白馬ヒコーキ」の姿がダブった。膨大な資料を読み通し、沖縄本島の馬場を隈なく歩き、古老たちと三線の弾き比べまでした著者の梅﨑晴光の素晴らしい本書と、なんとはなしにシンクロニシティを感じた瞬間である。
忘年会の席で、ある先輩から私はこの本の存在を知った。すぐに手に入れようとしたが、ネット書店は全滅、版元のホームページから直接取り寄せた。送料無料で翌々日には手に入ったので、すぐに読みたい方はお勧めしたい。
HONZでは今まで1000冊を超える作品を紹介しているが、沖縄の地元出版社「ボーダーインク」の本を紹介するのは初めてである。Amazonでは取り扱っていないようだが7netはOK。honto.jpは今なら在庫があるようだ。競馬ファン、馬マニアはもちろんのこと、沖縄が好きで埋もれてしまった歴史に興味がある人にはぜひ。年内最後のレビューをこの傑作の紹介で飾ることができてうれしい。
凱旋門賞のオルフェーブルは本当に残念だった。栗下直也のレビューはこちら。
戦争では馬は大きな戦力となる。しかしその犠牲は大きい。ケモノバカの私はこの映画で泣けた。