高野秀行の魅力は高い親和力だと思っている。ノンフィクション作家は好奇心が強いのは当たり前。しかし相手のことを無視して、自分の取材のためだけに突き進み、相手に嫌われるまでになるのは、作品としてすごいと思っても、ちょっと嫌だ。
大学時代に怪獣さがしに行ったデビュー作『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)からその態度は全く変わっていない。好奇心はいっぱいで、何か異質なもの、奇異なもの、知りたいものに果敢にアプローチしながら、最初はどこか奥ゆかしい。相手や同行する仲間に気を遣い、ちょっとしたことでも“エライ”“すごい”“感動した”と子供よりも素直なのだ。そしていつの間にか輪の中に入ってしまい、取材なんかはそっちのけで、自分から楽しんでしまう。それが彼の文章からにじみ出ているのだ。
新刊『移民の宴』でもその様子は変わらない。本書では「隣に住んでいる外国人はいったい何を食べているのか?」という素朴な疑問から始まっている。この何十年かで日本に住む外国人は飛躍的に伸びた。それも世界中から、様々な経路で日本に何十年も住むことになった人たちが増えている。日本人と結婚した人も多い。日頃の食生活はどうなっているのだろう。
本書のタイトル「移民」という言葉は、日本の中で暮らしに溶け込んでいる外国人には当てはまらないかもしれない。事実、その言葉は自分とは違う、と取材拒否もされたそうだ。しかし高野は本書の付記でこう記している。
“私としては「日本に移り住んだ外国人」に焦点をあてたかった。だから、日本人読者には馴染まない表現だと重々承知の上でこのタイトルにしたのだ。(中略)「移民と呼ばれてもOK」と答えた人はすべて思想的に「リベラル」は人だったことは書いておくべきだろう。”
伝手を頼って取材できたのは、タイ、イラン、フィリピン、フランス、中国、イスラム圏、ブラジル、インド、ロシア、朝鮮族中国人、スーダン、と脈絡なく広い。好奇心の赴くまま、系統立てて計画したわけではないから混沌としている。その混沌が可笑しく面白い。中には「ここは本当に日本の国内なのだろうか?」と驚くほど異国感漂う場所もある。
タイ料理店は、今ではちょっとした地方都市でも普通に見かける存在だ。しかし高野が向かったのは、人里離れて建てられている立派なタイ寺院。ここでは、国に居たときのように食べ物を持ち寄りお供物として捧げ、タイ人が心のよりどころにしている「タンブン(功徳を積む)」を心置きなくできるようにしている。写真を見ると、満漢全席のように僧侶の前は食べ物で埋め尽くされている。これに少しずつ箸をつけることが僧侶の義務でもあるのだ。
あまり見たことがない豚の臓物の料理を見て「これはどこで手に入れるんですか?」という質問に「肉のハナマサ」という答え。当たり前すぎで忘れていた。
次に取材したのは奥さんが嵌っているというベリーダンスの先生の出身地であるイラン。何十年もの戦争続きの印象が強いせいか、どうも暗いイメージが付きまとう。特にイランは1979年のイスラム革命以降、女性の自由が奪われ、息をひそめて暮らしているのかと思っていた。
しかし実際の彼らは歌と踊りが大好きで、家の中では禁止されているプロの楽師を呼び、これもご法度のお酒を飲みながら歌い踊り明かすという。日本にいればもっと自由だ。イスラム国家である以前にペルシアの文化を大切にし、ゾロアスター教の神様のペンダントを付ける。そのリベラルさは高野自身も驚いている。
そのイランの料理は驚くほど手間がかかる。仕込みに17時間もかけ、とにかく細かい。それに洗練されている。イランの絵画や建築は繊細で美しいことが知られているが、料理も同じ。高野は「中東の京都」と例えているが、見た目も味も細かいところまで気配りされている。
高野がイランを旅行した際に感じた「料理のまずさ」の原因が、ひとつは外食の習慣がないことと、もうひとつは男が作っているからだ、という。結局体制が変わらなければ、この優雅な料理をイラン人以外は食べられないのだ。
取材を続ける間に東日本大震災が起こった。日本人が生きるだけでも大変なのに、そこに住んでいた外国人はどうしているのだろう。今になって思えば当たり前のことだが、日本中から外国人がいなくなった。しかしそんな中でも、イスラム教徒たちがいち早く炊き出しを行い始めたり、バンコクからの仏教徒が仏像を運んできたり、とか支援(?)のニュースも飛び込んできた。
やはり現地に入らなければわからない、と南三陸町に嫁いだフィリピン人女性のコミュニティを訪ねていく。フィリピン料理の食材を山ほど仕入れ出かけた先には、明るく楽しく逞しいフィリピン女性の被災者たちがいた。わいわいと作る料理に舌鼓を打ちつつ、震災の恐怖を知る。彼女たちの明るさに支援に行った高野たちが慰められている。
日本に長く住んでいる理由は人それぞれ。しかしみんな日本、というより自分が住んでいる土地に愛着を持っている。だからどこにも行きたくないし、この地で日本人と一緒にやっていきたい。「日系〇〇人」とは反対に「外国系日本人」という人が多くいることに改めて気づかされる。
皆が口々に言う「日本食は簡単だ」ということばにも驚いた。考えてみれば、生ものは切るだけ、魚や肉は焼くだけ、煮物もそれほどの手間ではない。高野たちがお客さまであるということを除いても、各国料理は手が込んでいる。しかし彼らはそれを何日もかけて食べる。日本ではその日一日限りで、毎日献立を考えなくてはならず、それも日本食、洋食、中華とジャンルまで変えなければならないのだ。確かにこれは手間であるし、世界でも例を見ない食文化なのかもしれない。
それにしても、どれもこれも美味しそうだ。そして何より高野が宴会に参加し驚き酔っぱらっている姿がいい。こうやって一緒に楽しんでみたい。今はまさにパーティシーズン。無国籍な宴会を開いてみたくなった。
(写真は撮影者からお借りしました。禁複製)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本書にも登場する盲人のスーダン人、アブディンや故国を追われたイラク人のことなど、『移民の宴』の原点。
イスラム圏で酒が飲めるか、というこれも素朴な疑問から始まった取材。含蓄深い成毛眞のレビューはこちら
『移民の宴』を読んで、この本が積んであることを思い出した。「移民」という言葉を嫌う人たちの気持ちも考えたい。