新潮社の月刊誌「波」に掲載された原稿だ。「波」は128ページに本の話題が満載されている雑誌で定価は100円。3年間で2500円。驚いたことに送料込である。A5判なので持ち歩きにも便利。つい申し込んでも損はないと思う。
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ヨーロッパを観光旅行したことはない。イギリスとフランスには仕事で数泊しただけだ。ドイツやスペインには足を踏み入れたこともない。家族旅行の行き先はモロッコ、エジプト、ネパール、ケニアなどだった。娘には変化しつづける新興国の今を見せておく必要があると思ったのだ。ヨーロッパの観光地は夫婦の老後の楽しみにとってある。変化しないことが確実だからだ。
しかし、イタリアには毎年ふらふらと足を運んでしまう。とりわけ仕事が忙しい時期に、見てはいけない、読んではいけない、と思いながらもつい塩野七生の本を手にとってしまうからだ。フォレンツエもヴェネチアも本の追体験をするべく旅行した。
もちろん、ボディブローで効いたのは『ローマ人の物語』だった。15年間にわたって、毎年古代ローマを体験させられたのだ。いまや奈良や明日香よりもはるかに身近に感じるローマへは、帰省するがごときの旅行となる。
それがゆえに、本書『十字軍物語』を読むことには若干躊躇してしまった。旅をするには面倒そうなシリアやレバノンにまで足を運ばなければいけないのかと思ったからだ。第1次十字軍は陸路を通ったことだけは勉強しておいたのだ。ところが、本書はそのような誘惑を仕掛けてこない。
『ローマ人の物語』は標準ズームレンズ、『ローマ亡き後の地中海世界』が広角レンズで撮った作品だとすると、『十字軍物語』は花や虫の接写を得意とするマクロレンズで撮った作品だ。そのマクロレンズの画面には中世のキリスト教徒とイスラム教徒の滑稽だが凄惨なドラマが写されている。著者の意図とは異なることを承知で表現すると、虫眼鏡を通して、赤や黄色に染まった複数のアリの集団が、入り乱れて戦っているごときを見ている錯覚に陥る。
個々のアリは防衛しているのか、略奪しているのかが判然としない。はたして赤のライオン印を付けたアリと、黄色と青の格子のアリは協力関係にあるのだろうか。しかし、全体として十字印をつけたアリが勝っているというような印象なのだ。
それゆえに、興味をそそられたのは土地よりも十字軍に参加した諸侯の紋章であり、武具であり、それこそはヨーロッパ各地で見ることができるものばかりである。これで堂々とヨーロッパ旅行に出かけることができるというものだ。
ともあれ、本書の接写感はレンズの暗喩だけでは表現しきれない。接写感といってまずいのであれば、現場感であろうか。その現場感をもっとも感じることができる戦記はカエサルの『ガリア戦記』だろう。簡潔だが細部をおろそかにしない記述、不用意な解釈を伴わない冷静な観察、翻訳がもう少しこなれてさえすれば、2000年以上前の指揮官本人が書いた本だと想像できるひとはいないであろう。
じつは本書を読み進めるにつれ、その『ガリア戦記』と錯覚しはじめるのだ。もちろん主語はカエサルでない。しかし、戦いのなかから戦いのための教訓は得られるが、戦争やら人生やらのなにがしかを見つけたければ、それは読者の勝手だという立場は一致しているように見える。その意味で最良の戦記文というのは2000年ものあいだ、さほど進歩はできないものだと妙に感心した。逆にいうと、本書はカエサルが記述するとこうなるかもしれないという十字軍戦記なのかもしれない。2000年の時を超えた共作だ。