ひとことで括ると「人種と遺伝子」の本である。人種差別を助長するとして、アメリカの出版社であれば発売を躊躇するであろう。『黒人はなぜ足が速いのか-「走る遺伝子」の謎』というタイトルは刺激的だ。対称的能力である「知能の遺伝子」の議論に直結しかねないからだ。
ともあれ、本書でも取り上げられているスポーツ遺伝子のひとつ「ACTN3」については、日本でも2万円弱で検査を受けることができる。ネットで申し込み、口の中をこすった綿棒を郵送するだけだ。
これだけで、自分が短距離向きなのか、長距離向きなのかを判断することができるようになっているのだ。日本人の陸上選手がこの検査結果をうけて、短距離から中距離に種目を変え、あっさりと日本記録を出したことがある。丹野麻美選手である。
本書の紹介にもどろう。著者はまず短距離種目では西アフリカ出身者が、長距離種目では東アフリカ出身者が、圧倒的に速いことをデータで示す。
つぎに、短距離・瞬発力系と長距離・持久力系に特徴的な、それぞれの遺伝子とそのメカニズムを丁寧に解説する。ここではACTN3だけを説明するわけではない。現在判明している10種あまりの遺伝子も合わせて紹介している。
多数の遺伝子が絡みあう複雑なメカニズムなのだが、因子や受容体などの最低限の専門用語さえ理解できれば、高校生でも楽しめる内容になっている。酒の強さに関わる遺伝子や、牛乳を飲むとお腹がゴロゴロすることに関係する乳糖耐性遺伝子、さらには遺伝子ドーピングまで話題は広い。
つまり、現代の分子生物学の入門書にもなっているのだ。そのつもりで本書を読めば「遺伝か教育か」などという、デリケートな問題から目を逸らすことができるかもしれない。著者もアメリカで問題となっている「IQ遺伝決定論」を否定してみせるのだが、知能だけは遺伝しないという証明にはなっていない 。