頁を開いた瞬間にひきこまれる――
そこに広がる異空間とは。
東京、千駄木の往来堂書店は、本好きには有名な「町の本屋さん」だ。偶然出かけた先週のこと、なにやら大きく展開している本がある。なんだろう。
吉野せい? 洟って、読み方は「はな」でよかったよね。
そんなことを思いながら手に取り、本の面構えを眺めてみる。本にはどうも「面構え」とでも呼びたくなるものがそれぞれあり、仏頂面のもの、誘いかけてくるもの、怒っているもの、さまざまだ。この本に関していえば、「凛々しい」そんな印象だった。文庫だということもあり、すぐに購入し読み始めた。
1975年に彌生書房より刊行、その後文春文庫に入っていたが、中公文庫でこのたび復刊された新刊だ。
度肝を抜いたのは、頁を開いてすぐのこと。なんと「序」に詩人にして哲学者、随筆家の串田孫一(1915〜2005。息子は演出家の串田和美)が絶賛の言葉を並べていたのだ。精緻な文章で知られる串田が、褒めるという範疇を超えて「異質でうろたえた」と告白する吉野せいの文章世界とはいったい?
本に掲載されている著者プロフィールを引き写してみよう。
1899年(明治32年)、福島県小名浜(現いわき市小名浜)生まれ。高等小学校卒業後、検定で教員資格を取得し小学校教員を務める。1921年(大正10年)吉野義也(詩人、三野混沌)と結婚し農業に従事。70歳を過ぎてから筆をとり、75年(昭和50年)『洟をたらした神』で第6回大宅壮一ノンフィクション賞、第15回田村俊子賞を受賞。77年没。
さて、ここで私はどきどきしてきた。「掘り出し物」を当てた気がする。なんだか読み始めるのがもったいないような。そうなると次に向かうのは「解説」である。
なんと解説者は清水眞砂子。ル・グウィンの『ゲド戦記』の翻訳などで知られる、児童文学者だ。『ゲド戦記』4巻には、帰郷したゲドが生活をともにするテナーという元巫女が出てくるが、翻訳の際にそのテナーの台詞を吉野せいの文章に倣ったという。その清水さんは自分の身に重ねつつ、続ける。
「吉野せいは作品の中からぐっと手を伸ばし、私の肩をわしづかみにして、揺さぶる」
若い頃に原稿を雑誌投稿したことはあったものの、せいは、1970年、71歳のときに夫が亡くなるまで、ほとんど筆をとらなかった。夫のお別れ会で、同郷で長年親交のあった詩人の草野心平に強く勧められたことでやっと書き始め、串田の世話でいくつかの原稿が雑誌掲載されていく。
その16編をまとめたのが本書というわけだ。
書いたのは71歳からだが、内容は、彼女が若い頃から老いるまでの長きにわたる。1921年の結婚後、三男坊の夫が土地を相続できるわけもなく、夫婦は阿武隈山中で開墾に勤しむのだが、その生活は貧困を極める。また、戦争は山中といえど容赦はしない。
畑で詩を書き始めるような、生活力のない夫とともに、土にしがみつき、土に育てられる毎日。時代は決して甘くない。吉野せいはどう生き抜いていくか。
ついに読み始めてみると、その世界は予想以上に衝撃的だった。ただ、たとえば、と例をあげようにもなかなかできそうもない。一部を「はい、これです」と差し出せる文章ではないのだ。全体の調和で表現されたものだから、引用するとしたら、全部。下手に切り貼りできない。
とにかくは頁を開いてみてほしい。
炭坑事故で落命した男の話、畑に入った泥棒のやむをえない事情を知ったときの対応、徴兵された息子に会いに行く列車の中、夫婦の憎しみと葛藤、生後9ヶ月の次女を急性肺炎で失う夜——珠玉の話たちには、どれにも凛々しく逞しい生命力が感じられる。あえて喩えるとするならば、朝露のようなものかもしれない。落ちて行く一瞬、きらりと輝く。
75歳で本書を刊行した後、76歳で数々の賞を受賞し、77歳で永眠。
16編には、71歳までの激烈な人生がこめられている。
なにを書けるかは、どんな人生を生きてきたか。
結局、そこに行き着くのだろう。