なかなか刺激的なタイトルだ。
わずか7文字の中に、知的好奇心を刺激してやまない「違和感」が内包されている。
まず「戦国」と「天皇」がうまく結びつかない。日本史で習った天皇を思いつくままに挙げてみても、古代であれば神武、推古、聖武、桓武といった有名ドコロがすぐに浮かぶし、中世になると、後に院政を敷いたことで知られる白河、鳥羽といったあたりが思い出される。しかし、その後となると、多くの人にとって耳馴染みがあるのは後醍醐天皇くらいで、建武の新政が崩壊して室町時代に入ってくると、その頃の天皇の名前はほとんど知らないのではないだろうか。
そして「貧乏」と「天皇」も、同じように結びつかない。鎌倉幕府の誕生以降、武家統治の時代が長かったのは事実としても、やはり天皇は一貫して日本史の中心にいたはずだ。武家の時代にあっても、たとえば征夷大将軍の任命権限を持っていたのは天皇だ。要するに、武家にとっても天皇の権威が重要だったということであり、その天皇が「貧乏」だと言われても、なかなかピンと来ない。
これだけでも十分に興味深いのだが、さらに本書の帯は追い討ちをかける。なにせ、目に飛び込んでくるのは「もう、朕は天皇を辞めたい!!」という衝撃的なフレーズだ。歴史上、壬申の乱のように皇位継承を争った例はあるにせよ、辞めたいって・・・。宿命を持って生まれた人間のみに許された最高の名誉ある権威。それが天皇ではないのか。
そんな違和感の根源を、本書はひとつずつ丁寧に解きほぐしていく。
戦国時代の天皇については、いまだ研究が十分に尽くされてはいない状態にあるようだが、著者は豊富な史料や参考文献に基づいて、当時の天皇が直面していた窮乏の実態を明らかにしている。
本書が主に取り扱うのは、後土御門天皇(103代、1464-1500)、後柏原天皇(104代、1500-1526)、後奈良天皇(105代、1526-1557)の3人だ。それぞれの天皇に1章ずつ割かれていて、どれも非常に面白いのだが、中でも郡を抜いて衝撃的なのは、やはり後土御門天皇だ。後土御門が在位した36年間はまさに驚きのエピソード満載なのだが、ここではその即位が1464年であることに注目してほしい。即位から3年後の1467年には、京の町を一面火の海にしたとされる「応仁・文明の乱」が勃発しているのだ。1477年に収束を迎えるまで、11年にもわたって繰り広げられたこの悲惨な戦乱は、室町幕府の統治体制を決定的に弱体化させ、これをもって戦国時代の幕が開けることになる。後土御門天皇の時代というのは、まさにこの戦乱期に見事に符号していたのだ。
父、後花園天皇から帝王学を授かり、和漢の学問に通じていた後土御門は、寛永6(1465)年12月27日、24歳にして天皇に即位する。政治に対する意識も高く、戦乱に苦しむ民衆の姿には常に心を痛めていた。疫病が流行すると、四大寺(東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺)に祈祷を命じ、各地に官宣旨を下して般若心経を読誦させて国家の平安を祈願した。神仏にすがることしかできないとしても、天皇として常に国を想い、民に心を砕いたその姿は、時代さえ違えば、名君として永く語り継がれたのかもしれない。そう考えると運命の皮肉としか言いようがないのだが、あまりにも時代が悪かった。結局、天皇という存在の無力さに絶望した後土御門は、幾度も「辞めたい」と口にするようになる。著者も書いているが、歴史上、天皇自身が繰り返し辞意を表明したという例は、後土御門以外に聞いたことがない。
これだけでも衝撃的だが、ポイントは「幾度も」というところだ。そう、実際には退位できなかった。より正確に言えば、退位させてもらえなかったのだ。文明3(1471)年に後土御門が初めて退位を表明すると、公家、武家の双方に衝撃が走り、公武をあげての説得工作が展開された。そして哀しいことに、その大きな理由の1つは、危機的な状況に陥っていた皇室財政にあったのだ。
もちろん、そもそも天皇が突如として退位を表明するなど尋常ではない。まだ皇太子も決まっておらず、退任となれば大混乱が生じるのは誰の目にも明らかだった。ただ、よりシビアな問題として立ち上がってきたのは財政事情だった。退位となれば、後継者の即位式が必要となる。当時、即位式には五十万疋(約5億円)が必要だったという。最高権威たる天皇の即位と思えば、さほど高い費用でもない印象もあるが、この捻出にさえも苦慮するほど、当時の皇室は財政的に追い詰められていた。この流れを決定づけたのは、やはり「応仁・文明の乱」だろう。この戦乱によって室町幕府による地方支配の体制は致命的なレベルにまで弱体化し、守護を通じた地方荘園からの収入は大幅に落ち込んだ。何とか維持してきた禁裏領所(皇室領)からの年貢納入も、必ずしも安定的ではない中で、朝廷は幕府に資金援助を求めるが、幕府の懐事情も同様に苦しかったのだ。
皇室財政の危機を象徴するエピソードは、他にも多々ある。例えば、朝儀の停滞だ。財政面だけではなく、戦乱を避けた公家衆が地方に散っていたことも要因ではあるが、節会や歯固の儀式は長きにわたって中止されることになった。大嘗会も当時は行われていない。戦乱で荒廃した内裏の修復もままならない状態だった。通常は朝廷に主導権がある改元も容易ではなく、幕府の財政支援を仰がなければならなかった。そして挙句の果てには、葬儀さえも遅延したというのだ。後土御門天皇は明応9(1500)年9月28日に亡くなったのだが、その葬儀が執り行われたのは、なんと死後43日目のことだった。11月8日、武家方から一万疋(約1000万円)の支給を得て、ようやく最小限の費用で葬儀を行う目処が立ったそうだ。当然ながら、天皇の崩御から43日もの遅延というのは異例中の異例だ。水銀による遺体の防腐処理などを行い、最善は尽くしていたようだが、それにしてもあまりに哀れではないか。
こうした不憫な状況に拍車をかけた要因の1つには、公家社会の「先例主義」もある。古代より脈々と継承されてきた伝統は極めて重要なものだったため、財政難の状況下においても「簡素化」は難しい問題だったのかなと思う。伝統というのは、一度断絶してしまうと、そう簡単には元に戻せない。先例を伝え知る人間を結集し、過去を知らない者たちに訓練を施し、何度も試行を重ねることで歴史を取り戻すことが必要になってくる。朝儀ひとつを取っても、節会を復活させるために公家たちは多大なる労力を割かなければならなかったのだから、伝統の維持コストというのは馬鹿にならないものだとつくづく思い知らされる。
ちなみに、公家の先例主義にまつわるエピソードにも驚かされるものが多い。
後花園上皇(後土御門の父)と後土御門天皇は、応仁・文明の乱が勃発した当初、難を避けるために、御所を離れて室町邸へと移ろうとした。その際、いつも使っている輿ではなくて乗物を使おうとしたところ、「稀代の例」ではないかと問題視されたそうだ。調査の結果、嘉吉の乱で先例が確認されたため、無事に乗物で避難することができたというが、全くもってその感性が理解できない。更に、室町邸に2人が同宿していると、「過去にこのような例はあるのか」という指摘が入ったという。これも、舟橋宗賢が先例を見出して「問題ない」との結論に導いたというが、著者もいうように、もはや滑稽でしかない。長享から延徳への改元に際しては、8月21日に行う旨が将軍の足利義政にも伝えられていたにもかかわらず、「近年8月に改元が行われたことはない。9月まで引き延ばしてはどうか」という横槍が入ってくる始末だ。改元絡みだと、室町邸に避難していた頃の改元作業に対しては「皇居以外の場で政務を行うことに差し支えはないのか」といったことも、真剣に議論されていたというのだから、トホホな話である。
このように、本書は戦国期における天皇という存在の「実像」を、豊富なエピソードを交えながら、可能な限りの史料を読み込んで、とても丁寧に描写している。歴史上の「天皇」というのは、ある意味では概念的な理解に終始しかねない存在だが、こうして本書を読んでみると、財政面の困窮、そして社会の荒廃を前に胸を痛める極めて人間的な姿が浮かび上がってくる。歴史に対するアプローチとして、こうした人間的な側面を、単なる想像に任せるのではなく、具体的な史料と研究で詳らかにしていく方法論というのは、非常に面白く、読み応えがある。
最後に余談だが、本書を読んでみて、つくづく思ってしまった。
「危機」と「先例」ほど相性の悪いものはない。そして日本社会の先例踏襲主義は、決して今に始まったものではなく、これ自体が過去から営々と受け継がれてきた社会構造だったりもするのだ。現代の日本が、ある種の危機に面しているとするならば、退位表明する前にしなければいけないことがあるのかもしれない。結局のところ大半の日本人は、日本から逃避することなく生き続けるのだから。
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群雄割拠の戦国時代を経て、日本は徳川幕府による江戸時代へと突入していくが、その頃の天皇というものを描いた本書は、麻木久仁子がレビューしている。こうして繋げてみると、歴史の中の天皇というものが、より立体的かつ人間的に見えてきて面白い。