カバー裏には「江戸前の魚が食べたくなる東京湾ガイド」とあるが、じっさいは丁寧に書かれた江戸前の海と東京湾内湾についての「文化誌」である。「文化誌」とした理由は、本書が対象としているのは美味しく食べることができる魚介についてであり、けっしてグルメ本や生物図鑑のようなものではないからだ。ありふれたタイトルを付けられて損をしている本である。
近年、人の生活と生き物の関わりについては「生き物文化誌学会」が素晴らしい仕事をしている。日本人ならではのアプローチだ。本書は奇しくもそれと並行して書かれた文化誌なのだ。
第1章はいささか長く、込み入った感のある「江戸前の定義」である。本書のタイトルと比較して唐突にみえる章でもある。しかし、読み進めるにつれ、なぜこの章が必要だったのかが理解できるようになる。江戸前は官による破壊の歴史でもあったのだ。
第2章は江戸前の魚の美味しさについてだが、もちろん「江戸前」だから江戸時代まで遡って解説する。徳川家康と佃島漁師の話などもでてくる。佃島漁師はいまでも徳川家にシラウオを献上しているのだそうだ。いまでも使われる「鯛のふき抜き」は江戸時代に開発されたという。本書で初めて知った「スズキの湯注ぎ」などはじつに旨そうだ。この2つが一体なにかについては、本書をご覧いただきたい。
第3章は浅草海苔、佃煮、ウナギの蒲焼き、てんぷら、にぎり鮨の江戸前5大食文化についての章だ。大変な工夫が凝らされていて、安易にレシピや店を紹介したりはしない。佃煮は文久2年創業の「船左」の初代が魚の塩煮をヒントに開発した、その魚の塩煮の食べ方もちゃんと解説してくれる。いまでは大変珍しい利根川産天然鰻を食べさせてくれる店の紹介もある。もちろん、当ブログで名前を明かすことはできない。ボクが今日にでも行ってみたいからだ。
第4章、第5章は江戸前の今についてだ。アサクサノリ、アユ、シジミ、アオギス、ハゼなどお馴染の魚介がでてくるが、たとえばシジミについては享保20年に書かれた『続江戸砂子温故名跡志』という書物を引き合いに出して、業平橋蜆や尾久蜆にも触れている。いまを語るのだが、それまでの道筋や周りも語る周到さだ。
本書は仮名草子『慶長見聞集』『寛永録』『吉原細見・里のをだ巻』(平賀源内)など多数の江戸書物からの引用も豊富だ。同時に魯山人や開高健、三遊亭金馬などの本も引き合いにだす。
著者は元釣り雑誌の編集長で深川生まれの江戸っ子だから、釣り現場の知識も豊富で、口調もどこか粋である。実家が米屋である著者に対して、やはり江戸っ子の鮨屋が「うちはササニシキとコシヒカリをブレンドしているんだけど、お前さんの代で暖簾下ろしたほどの道楽息子でも、そう言やわかるだろ」とにっこりしたとある。「お前さん」は「おめーさん」と聞こえたことであろう。「お江戸」に住む人におすすめの一冊。
生き物文化誌学会