- 作者: マーク チャンギージー, 柴田 裕之
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出版社: インターシフト
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発売日: 2012/10/20
本書で進化理論神経科学者マーク・チャンギージーの論理展開を堪能し終える頃には、あなたの世界の見方は一変しているだろう。難解な科学的事実に対する分かりやすい解説と直観に反するファクト。大胆な仮説とその仮説を支える緻密なデータ。サイエンス本が持つべき美点の全てを兼ね備えているかのような本書を、『錯覚の科学』のダニエル・シモンズはMUST READの一冊として賞賛している。
本書の範囲は、ひとの目はどのように進化したのか、ひとの目はどのような驚異的能力を持っているのか、の解説にとどまらない。チャンギージーが挑んでいるのは、「どのように」よりも、「なぜ」に答えを出すことだからだ。
著者は本書で4つの超人的視覚能力にまつわる「なぜ」を追いかける。
・なぜ人間は、テレパシーのように相手の感情を読み取れるのか?
・なぜひとの目は、目の前の障害物を透視することができるのか?
・なぜ私たちは、少し先の未来を予知することができるのか?
・なぜ人類は、死者を含めた他人の考えを読み取ることができるのか?
自分にこんな能力は備わっていない、と思うかもしれない。しかし、私たちはその超人的能力の存在に気づくことなく、これらの能力を毎日活用している。これは、超常現象やオカルトについての本ではない。著者は人間の進化をさかのぼることで、科学的にこれらの能力とその裏に潜む「なぜ」を明らかにしていく。
ここから、4つの謎をチャンギージーがどう料理していくのか紹介しよう。
エイリアンには人種の違いが分からない
上司が怒っていることは、真っ赤な顔を見ればすぐわかる。友人の具合が悪いことは、土気色の肌を見ればなんとなくわかる。嘘発見器がなくても、私たちはテレパシーのように肌の色から他人の状態をうかがうことができる。“顔色をうかがう”という作業を機械に実行させることの困難さを想像すれば、この能力がいかに超人的なものか分かるだろうか。
顔色から多くを読み取れるといっても、ひとの目で見える光の波長は400~700ナノメートルの領域に限定されている。そもそもこの“見える”という視知覚は、人間の目の網膜にあるS、M、L三種類の錐状体というニューロンがそれぞれ異なる波長の光に反応することで構築されている。つまり、どの錐状体も反応しないような波長の光は見ることができないということだ。
この錐状体には奇妙な点がある。S、M、L錐状体の感度が最大となる波長が、それぞれ430、535、562ナノメートルとなっているのだ。何が奇妙なのかというと、この組み合わせではSとMの間が離れすぎており、MとLが近すぎる。これでは、SとMの間(480ナノメートル付近)の波長を持つ光に対する感度が悪くなってしまう。3つの錐状体を等間隔に配置した方が、効率的に光を知覚できるのではないか。
この偏った配置の理由は、人の肌が反射する光のスペクトルが教えてくれる。標準的な人肌の反射スペクトルは550ナノメートルの前後に特徴的なピークを2つ持っているのだ。そう、その2つのピークの位置は、M、L錐状体の感度が最大になる波長とピタリと重なる。これこそ、人類の目が肌の微妙な変化を読み取るために進化したことの証拠だと著者は主張する。
ひとの目がいかに人肌を見るのに適しているかは、「白人」「黒人」という言葉にも現れている。実は、白人と黒人の肌の反射スペクトルは物理的にはほとんど差がない。そのため、人肌に最適化されていないエイリアンの目では、その違いを見分けることができないだろう。著者はさらに、色盲の発症率が女性より男性で高くなる理由、どの言語でも“自分の肌の色”を基本色で表すことが難しい理由を巧みに解説しながら、自説の確度を高めていく。
見たくないものは見えない
人間の目が頭の横ではなく前に並んでいるのは、対象の奥行きを知覚するためだと説明されることが多い。しかし、片目を失っても奥行き知覚はあまり損なわれることはなく、隻眼のパイロットやカーレーサーもいる。ではなぜ、両横の目がもたらす広い視野という利点を棄ててまでひとの目は前に付いているのか。
チャンギージーは、私たちの透視能力にこの謎を解く鍵があるという。私たちには透視能力などないと思うかもしれないが、今この瞬間にもあなたはその能力を発揮している。ディスプレイを見つめるその視界に、あなた自身の鼻が映り込んでいないことが何よりの証拠だ。片目を閉じれば障害物として視界に飛び込む鼻を、あなたは両目を使って透視しているといえる。
ただし、この透視能力も万能ではない。ビルの向こう側を見ることはできないし、砂漠では障害物が存在しないので透視能力など必要ない。ひとは本当に、この限定的能力のために広い視野をあきらめたのか。人類の進化の時計を巻き戻し、私たちが誕生した場所からチャンギージーは考え始める。
彼の考察対象は人類にとどまらず、多様な生物の身体サイズと目の位置の関係を徹底的に分析している。この調査から、特定の環境下では身体が大きい生物種ほど2つの目がより頭部前方に位置していることが明らかとなった。特定の環境とはどのようなものか、なぜ身体のサイズと目の位置に関連性があるのか、ここでも彼は巧みに読者を誘導していく。
ひとは0.1秒後の未来を生きる
ひとの目を語るなら、錯視は避けて通れない。同じ長さの2本の線分の長さが違って見える、という錯視画を一度は目にしたことがあるはずだ。しかし、錯視が起こる理由についての説明を聞いたことがある人は、どれだけいるだろうか。Wikipediaにも多くの錯視が紹介されているが、「多くの錯視は原因が分かっておらず、仮説が立てられているというものがほとんどである」とある。
チャンギージーは錯視の謎を解くために、網膜が光を感知してから視知覚に変換するのに0.1秒かかるという事実に注目する。0.1秒といえば大した時間ではないと思うかもしれないが、時速36kmで投げられたボールはその間に1メートルも進む。これではキャッチボールもままならないと思うのだが、多くの人が難なくキャッチボールを楽しんでいる。これは私たちの未来予知能力のおかげだ、と著者はいう。
ひとに予知能力があることを示す実験がある。その実験で被験者はボールの垂直落下を見せられる。このとき、ボールの落下線上の少し横には電球が備え付けられており、この電球はボールが電球の真横を通過した瞬間にのみ点灯する。実験後に「電球が点灯した瞬間にボールはどこにあったか?」と尋ねられた被験者のほとんどは、「電球よりも下側にあった」と答える。つまり被験者は、電球が光ったその瞬間、ボールの未来を見ていたということになる。
*未来予知能力は、こちらのリンクで実感できる。
なぜ私たちはこのような予知能力を持っているのか、この能力と錯視にどのような関係があるのか、チャンギージーの推理は一層大胆になっていく。最終的に彼は、錯視の謎を一度に説明する「大統一理論」を打ち立てる。この章を読み終える頃には、あなたの時間、空間に対する考え方は大きく変わっているに違いない。
どんな文字にも自然が埋め込まれている
私たちは、地球の裏にいるブラジル人の思いも、400年前に死んだシェークスピアの創作も、すらすらと読むことができる(日本語で書かれていれば)。これほど速く正確に他人の、ときには死者の、思考を読み取る姿を文字以前の世界の古代人が見れば、現代人には超人的能力が備わっていると思うはずだ。
ひとの目は肌の色だけでなく、文字を読むために進化したのだと考えたくなるが、文字が発明されてからたかだか数千年しか経過していない。人体が大きく変化するには短すぎる時間だ。ではなぜ、私たちはこんなに上手に文字を読むことができるのか。チャンギージーはコロンブスの卵的発想で、最後の謎に切り込んでいく。
ひとが進化できないのなら、文字がひとに合わせて進化すればよい。
人間に合わせて進化した文字とは一体どのようなものか。この問いは、ひとは何を見るのが得意なのかという問いに変換できる。ひとが見ることに長けているもの、進化の間で最も長く見続けてきたもの、それは自然である。自然を文字に昇華できれば、その文字は人間が読み易いものとなるはずだ。
漢字に慣れ親しんだ我々は、文字が自然を表現していることなど当たり前だと感じるかもしれない。また、19世紀末ヴィクトル・ユーゴーが「文字には自然が潜んでいる」と主張していたように、この考え方自体は目新しいものでもない。それでもこの章がエキサイティングなのは、この仮説の証明のために提出される証拠が目を見張るものだからだ。
彼は共同研究者とともに、100近くの異なる文字(発話表記体系)の特徴を調べあげ、どのような幾何学的構造がどの程度の頻度で用いられているかを明らかにした。例えば、L、Tのように2本の直線がその端、中央で結合する構造は高頻度で、K、Yのような構造は低頻度で用いられているという。
次に彼らは、同様の手法で私たちが暮らす自然がどのような幾何学的構造から成り立っているかを定量的に調査した。この2つの結果を比べることで、文字と自然の類似性が明らかにされていく過程は、本書のクライマックスといえるだろう。
独創的な着眼点と仮説、説得力のある証拠と無駄のない論理展開に本当に圧倒された。本書は現時点で2012年のNo.1だ。興奮の読書体験の後には、自分もチャンギージーのように世界を独自の視点で見てみたいという気持ちが湧いてくる。
これは無謀な願いではないはずだ。ひとには超人的能力を備えた目があるのだから。
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- 作者: メアリアン・ウルフ, 小松 淳子
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出版社: インターシフト
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発売日: 2008/10/2
『ひとの目、驚異の進化』の最終章で取り上げられている、文字と人の脳の関係性を徹底的に掘り下げる一冊。本を読むということ、文字を読むということは人間にとってどのような意味があるのか、HONZ読者なら必ず楽しめる内容が盛りだくさんである。ソクラテスは文字の使用は人間の記憶力、思考力に悪影響を与えると危惧していた。本離れを危惧する我々の心配は杞憂に終わるのか。本の未来についても考えさせられる一冊。
- 作者: 池谷 裕二
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出版社: 扶桑社
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発売日: 2012/8/1
こちらはひとの驚異的能力ではなく、ひとの奇妙なくせに注目した一冊。幅広い分野の最新の内容が分かり易く解説されており、サイエンス本になじみの薄い人でも間違いなく楽しめる、サイエンスが好きになる一冊。レビューはこちら。
サブリミナル・インパクト―情動と潜在認知の現代 (ちくま新書)
- 作者: 下條 信輔
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出版社: 筑摩書房 (2008/12)
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発売日: 2008/12
『ひとの目、驚異の進化』ではチャンギージーの共同研究者として1人の日本人研究者の名前がたびたび登場する。その日本人とは本書の著者、下條信輔カリフォルニア工科大学教授である。本書では、意識に及ばない私たちに影響を与えている要因について掘り下げていく。テレビ広告はあなたを予想もつかない方向に誘導しているかもしれない。