ある意味、とびきりのリークだ。
「公開こそ正義」という強烈な信念を持った異端児の姿を、剥き出しにしたのだから。
この自伝が「本人非公認」、つまりリークとして刊行されることになったのは、運命の皮肉だろうか。
ジュリアン・アサンジ。言わずと知れたウィキリークスの創設者は今、ロンドンのエクアドル大使館に滞在している。2010年12月、スウェーデンでの婦女暴行容疑でロンドン警視庁に逮捕されたアサンジは、エクアドルへの政治亡命を申請。2012年8月に認められたものの、大使館の外に一歩出れば身柄を拘束する方針を崩さないイギリス政府を前にして、身動きの取れない状況に置かれている。
2010年12月20日、アサンジは自伝の出版についてキャノンゲート・ブックスとの契約を取り交わした。本書訳者のあとがきによると、アサンジ本人は自伝の執筆に当初から乗り気でなく、「スウェーデンへの移送撤回を求める訴訟費用を捻出するために仕方なく契約した」そうだ。それでも、当時アサンジが軟禁生活を送っていたノーフォークのエリンガム・ホールで、50時間以上にも及ぶ濃密なインタビューが行われ、アサンジ自身の生い立ちや世界観、育ってきた環境、ウィキリークス創設から世界を揺るがす数々のリークに至るまでの活動といった諸々が、予定稿の中で描き出されていった。ところが、次第に自伝の出版に難色を示すようになったアサンジは、2011年6月には出版契約の破棄を要求する。自身の半生が綴られた原稿を読んだ後、アサンジはこう語ったそうだ。
「自伝なんて体を売るのと変わらないな」
しかしながら、アサンジとの間で前払い金に関する契約を締結していた出版社は、その有効性に基づいて出版に踏み切った。こうした経緯により、本書は「(本人)非公認の自伝」ということになっているのだ。さすがにジュリアン・アサンジは只者ではない。自伝の出版経緯ひとつを取っても、型に嵌まるようなところがまるでないのだから。
本書を読んで強烈に感じたことがある。
ジュリアン・アサンジは、おそらく天才だ。それは「秀才ではない」という意味で。
そして同時に、原理主義的だ。それは「原理にしか関心がない」という意味で。
アサンジの天才性を証明するエピソードは、本書がつまびらかにしたその半生を辿っていけば、もう枚挙にいとまがないが、最も分かりやすいのは、やはり16歳の頃から始めたハッキングだろう。「メンダックス」のハンドルネームで活動していたアサンジは、トラックス、プライム・サスペクトという2人の優秀なハッカー仲間と共に、「国際破壊分子(International Subversives)」というグループを結成し、ハッキングの世界に没入していく。夜になると、カナダの通信会社ノーテルやNASA、そしてペンタゴン第八司令部のコンピューターに侵入するのが「いつものパターン」だったそうだ。ブエノスアイレスの2万軒の電話回線を切ってみせることも、ニューヨーク市民のために午後の電話代をタダにしてやることも、当時の彼らにとっては、その気になれば「お安いご用」だったという。
これだけでも十分に天才的ではあるのだが、アサンジにはなんとも形容しがたい「天才特有の欠落感」のようなものがある。常識の延長線上にいて、努力で欠落を埋めていく秀才とは、そもそもタイプが異なる気がするのだ。例えばアサンジには、人間が通常備えているようなバランス感覚、あるいは「ブレーキを踏む感覚」といったものが全く感じられない。
不思議なことに、何かを盗んでいるとか、何らかの犯罪や反乱に関わっているといった感覚はなかった。
僕たちはある時点で、コミュニケーションの世界を支配したいと考えるようになった。
こうした台詞が、一切の躊躇なく発せられるのだ。積み重ねた秀才が越えることのない一線を、易々と越えていく。まさしく天才的ではないか。(誤解のないように書いておくと、アサンジの行為自体をこの場で云々するつもりはない。価値の問題ではなく、端的な事実として「天才的」だと思うだけだ。また一方で、「それでも欠落は欠落である」というのも、やはり変わらない事実だと思っている。)
それでは、アサンジの原理主義とは何か。
これはもう明らかだ。「正義原理主義」、この一言に尽きる。
情報の公開こそ正義。本書を読んでいると、特にウィキリークス創設以降のアサンジにとって、依拠する行動指針はこれしかない。自身の思想信条に則って、正義のためにその情報を公開すべきであると判断したならば、もはやアサンジを思いとどまらせるものは何もない。そして、ここがアサンジという人間を考える上で決定的に重要なポイントだと思うのだが、おそらくアサンジには「正義も相対的なものだ」という意識がほぼ存在しない。アサンジにとって、正義はまさしく原理であり、それが全てなのだ。アサンジのそうした性格は、本書の中でも随所に垣間見ることができる。例えば、こうした言葉の中に。
僕は金銭への関心が薄く、合法性についてはまったく関心がないからだ。
情報開示を求める活動は、単なる行為ではなくひとつの生き方だ。僕に言わせれば、それが分別と多感の両方をもたらしてくれる。つまり、人間というのは何を知っているかで決まるものであり、どのような国家にも知識を蓄える機会を奪う権利はないということだ。
当時のアフターグッド(注:米科学者連盟(FAS)政府機密プロジェクト代表)が言うところの「人々のプライバシーを侵害すること」は、僕の基準からすればたいした罪ではなかったし、ある人々が犯罪に関与している可能性がきわめて高く、その犯罪が闇に覆われている場合は、彼らのプライバシーを侵害しても罪にはならないと考えていた。
そんな本物の天才が、原理主義と手を結んで突き進むと―。
その帰結は、ウィキリークスの活動が物語っているだろう。アメリカ軍のイラク戦争に関する機密文書の流出では、総額130億ドルという、当時の物価に換算するとマンハッタン計画以上のカネがつぎ込まれていることを暴露。グアンタナモ湾収容所の職員用マニュアルの公開によって、収容者に対する「容赦のない残酷さ、非人間的な扱い、誇大妄想、芝居がかった過剰さ」を世に知らしめた。その後も、ファルージャでアメリカ軍が行った凄惨極まりない戦闘、ケニアで起きた虐殺と巨額のマネーロンダリングといった衝撃的な機密を次々と公開。『付随的殺人(Collateral Murder)』と名づけられ、YouTubeで1,100万回以上も再生されたというビデオでは、バグダッド上空からイラク人を爆撃した米軍の姿を暴きだした。更には、アフガニスタン紛争関連で約75,000点以上、イラク戦争に関しては約40万点にも及ぶアメリカ軍機密資料をリークする。
アサンジとウィキリークスの活動は、センセーショナルだった。強烈であり、世界を震撼させた。熱情的で、暴力的だった。挑戦的で、常にギリギリだった。そしてこの自伝を読む限り、やはり人を魅了する何かがあり、一方で否応なしに心をざわつかせる何かがあった。
面白くない訳がない。
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アサンジはハッカー時代に一度逮捕されているのだが、その頃に本書を読んでいる。「共感というものの意味を理解させてくれるものであり、僕に力を与えてくれるものだった」というその読書体験を通じて、アサンジは「闘いというのは、常に自分自身でいつづけるためのものなんだ」という境地に至っていく。
本書の中でアサンジが言及している1冊。アメリカ人ハッカーのケビン・ミトニックを「アメリカが誰よりも逮捕を望んだ無法者」と書いた下村に対して、アサンジは「ツトムに尋ねたい。おまえは、ミトニックがくたばったら、彼の墓を掘り返して、両手を灰皿代わりにして貸し出すつもりなのか?」と強烈な不快感を吐露している。
ウィキリークスが公開したアメリカ外交公電の日本語訳。東京発の公電も幾つか登場する。