1989年、津本陽が『巨人伝』を発表した。南方熊楠を世に知らしめた書だ。近代日本にはこんなとんでもない人物が実在していたのかと愕然としたものだ。明治維新以来、欧米に学ぶためには読書を中心とした座学こそが学者の姿だった。しかし、南方熊楠は常軌を逸した読書家であり、とてつもない酒豪であり、和歌山の山野や大英博物館において不眠で研究をし、19ヶ国語を理解した天才そのものだった。この本の影響はすさまじく、1年もしないうちにどのカナ漢変換でも南方熊楠は一発変換できるようになったほどだ。
ところで『巨人伝』は絶版になったようだ。文庫版の古本だとアマゾンで1円でいっぱい出展している。お勧め本なのだ。本好きの人は買っておいて絶対に損はないと思う。小説仕立てのノンフィクションという位置づけだ。
次に紹介された知的行動派の巨人が宮本常一だった。本は佐野眞一の『旅する巨人』である。民俗学を勉強している人にとって宮本は、誰でも知っている大先生だったのだろうが、一般人には新鮮だった。南方ほど人間離れしてはいないのだが、宮本も常軌を逸しているフィールドワーカーだ。73年間の生涯に日本中を合計16万キロも移動した空前絶後の旅行者だった。
その宮本が撮った写真は10万枚におよぶのだが、本書は1955年から1980年までの25年分の中から選び出した写真集だ。上下巻あわせて512ページ、1000枚以上の写真が収められている。
それにしても宮本の行動力はとてつもない。東京オリンピックの1964年、57歳の宮本は以下の町を訪れた。伊豆大島(岡田、三原山、波浮、差木地、元町、裏砂漠)伊東、熱海、広島、周防大島、小松、岩国、杵築、日出、山香町、別府、佐伯、弥生町、山田内、佐賀、相知、平山下、大野、武雄、多久、鹿島、塩田町、太良町、大峰、肥前山田、小郡。じつはこれはこの年の1-2月分だ。この調子で25年間旅をしていたのだ。なぜ1964年を取り上げたかというと、この年に新幹線が開通したからだ。それまで東京-大阪間は6時間半もかかっていたからだ。
いわゆる民俗学が対象とする農家や漁師などの田舎の風景だけではなく、安保闘争中の国会議事堂前や渋沢敬三家のお正月風景、最新のガソリンスタンドも写している。このころのナショナルブランドの看板などもあって面白い。妙な感想なのだが、駅前旅館や商店はトミーテックのジオコレそのものだ。
昭和30年代で目に付くのは米俵や竹かごだ。このころは容器や包装は手作りだったのだ。昭和40年代に入るとやっとプラスチックのバケツが登場してくる。おとうさんが着ている服もステテコからジャージになっていたりする。
1957年、丸亀の笠島で宮本は「住民の老化現象は昭和32年当時にすでに起こっていた。」と驚く。さらに1968年の府中大国魂神社の祭りで、神輿担ぎをみて「ちかごろは若者の力が弱くなった」と嘆く。いつの時代も「ちかごろは・・・」なのだ。
1957年の写真で「貸しカメラ屋」というのがある。1日100円で貸してくれていたらしい。1967年の宮島には「海軍兵学校御用達」という看板を掲げた旅館がまだ営業を続けていた。青森恐山の「イタコ」もいる。
宮本がそうなのか、選者がそうなのか判らないが、鉄道やバスなどの乗り物の写真が少ない。貧しそうなのだが、北朝鮮のそれとはかなり違う。などとブツブツいいながら眺める写真集でもある。
帯の「日本人の眼が輝いていた、忘れられた昭和がここにある」は余計だ。昔の人でも輝いていない人もいたはずだし、現代でもカラキラ眼の人もいる。昭和の事物はそれほど忘れられてはいない。西暦を使うことが多くなって、年号の感覚が薄れただけであろう。無闇にノスタルジーをかき立てるのは、本書の場合は損かもしれない。面白がる人に売り込んだほうが良いと思う。