とてもまずいことになった。株主総会など忙しいシーズンであるにもかかわらず、とんでもなく面白い本を買ってしまった。本書のもとになったのは同じ著者によって1958年に刊行された同書名の『日本故事物語』だ。その後、数回の改訂と増補を行われ、1972年に現在の版が確定した。そして、橋本治が解説を引き受ける形で2009年版が出版された。
橋本治が再版を提案したのだろうか、装丁や挿絵はお馴染みの岡田嘉夫である。じつはこの人のイラストも、装丁も、白く重い紙質も、べったりとした版組みもボクの趣味に全く合わないのだが、池田弥三郎の本文が面白すぎる。この本を再度世に出してくれた橋本治に感謝しなければならないと思う。
本書は日本人の口になじんだ成句を50音順に並び替え、それぞれの項で関連する薀蓄を語るという辞典形式をとっている。項として立てられているのは「合縁奇縁」「三千世界」「かごめかごめ」「地獄の沙汰も金次第」「とざいとうざい」「春は曙」などで、必ずしも故事成句や諺でもないし、短歌・俳句や唄の文句だけでもない。
本書の読書感をひとことであらわすと、不思議に思われるかもしれないが「飛翔感」である。日本地図に日本語をマッピングし、それを時代ごとに積み上げると、日本の形をした平積バームクーヘンができ上がるはずだ。読者はその3次元になった日本を縦横無尽に飛び回ることになる。
最初の章である「合縁奇縁」では冒頭で「つまずく石も縁のはし」もとりあげる。「縁」という言葉は前世の「因」と来世の「果」との橋渡しだと簡単に説明したあと、近松門左衛門の「生玉心中」から縁にちなむ台詞を抜き出し、これは謡曲「鉢木」の文句を踏まえているとして紹介しはじめる。その後は「紅葉狩」「史記」「心中宵庚申」、江戸小唄、川柳、「源氏物語」「伊勢物語」、俗曲、から縁にちなむ成句などを抜き出してみせ、日本人はよほど「縁」という言葉が好きなのだと結ぶのである。
これを読んで「日本語の勉強になるなー」と思う人よりも、「いやはや日本は面白い」と思う人のほうが多いはずだ。日本語でもなく日本人でもない。日本という国が面白いと感じるはずだ。前説の橋本治によると、この本は「日本人のあり方」を考えさせてくれる本である、という。「日本文化のあり方」ではなく「日本人のあり方」だというのだ。肯ける。
子供のころ祖母も母親も芝居好きだったし、長唄をやっていたこともあり、芝居がかった成句を良く聞いていた。「ようことご入来、いざまずこれへ」とか「遅かりし由良介」とか「すまじきものは宮仕え」などだ。そのような言葉が長い間、一般家庭でも伝承されるためには膨大な文化の蓄積が必要だったことを本書は教えてくれる。
少なくとも歌舞伎好きや落語ファンにとって読んでみて損はない本だと思う。それにしてももう少し魅力的に編集することもできた本だ。惜しい。