あまり文学好きではないボクが、本書を買ったのは「あとがき」が気に入ったからだ。水村美苗の『日本語が亡びるとき』をとことん批判しているのだ。まったく同感だ。この「あとがき」を読むまでは、文学者という人びとは水村のように現実離れした仙人のようなものだと思っていた。この人が書いた文学案内ならば読めそうだと思った。
水村は『日本語が亡びるとき』のなかで、英語が世界語化し、インターネットによってそれが加速したら、日本人エリートは日本近代文学を読まなくなるのではと憂う。それに対して東大で英語を教えている著者は「もうすでにエリートは文学など読まなくなっている」という現実を指摘し、「文学-近代小説というものがもうその頂点を過ぎた」とする。
目が醒めるのは「高校などでの国語教育というのは、論理的で正確な日本語の読み書きと古典文法などに限定すべきで、文学教育はすべきでないという考え方である。」のくだりだ。しかし、本書は古典の名作案内なのだ。いささか文学の現状にげんなり気味の著者によれば「日本人の1%に過ぎない文学の読者」向けの書籍ということになる。
ビジネスマン文書であれば、だらだらとしてダラシないとして書き直しを命じられそうな本書の文体は、読みだすと意外にも心地よい。『源氏物語』やシェイクスピアを賞賛しながら、どこの出版社から出ている誰の訳本が良いというところまで案内をしてくれる。次点である「トップクラスの名作」として推薦している数十冊の本は、膝を叩いて「わが意を得たり」と言いたいところなのだが、かろうじて半数を少年少女名作全集を含めて読んだ程度だ。
トップクラスの引き続いて「2位級」の本を紹介したのちの最終章は著者にとって名作とは言いがたいが、有名な作品が紹介される。夏目漱石の『こころ』はもちろんこのジャンルだ。このジャンルの本についても「わが意を得たり」で膝ポンだ。このうち最低10冊は子供のころに読んだはずだ。純文学とはなんと面白くないものだと思ったものだ。
ところで、歌舞伎について著者は20年ほど見たあとで「飽きるし、精神はない」という。「三味線を基調とした町人音楽も、とても同時代の西洋音楽と並べて考えられないくらい、精神の欠如した、貧相な音楽である」という。これだから文学者は油断がならない。やはり本当に真面目なのだ。
ボクにとって歌舞伎は役者を眺めに行くところであり、芸術として観に行くところではない。歌舞伎は江戸の昔から、酒や弁当を持ち込み、役者の裏話などのおしゃべりしながら、見物するものなのだと思っていた。歌舞伎はそのために世襲制や屋号などを作りだして、客に薀蓄を提供しつづけているのだ。
ましては三味線音楽はお茶屋で芸舞妓の踊りにあわせるものだ。清元や小唄は小粋なお師匠さんに習いにいくためのものでもある。こちらとしてはモーツァルトのような精神性があってはまことに困るのだ。冗談はともかく、本書は純文学キライのボクでも本として価格以上に楽しめた。