本書の著者である映画監督、園子温(その・しおん)の小学校時代の通知表には、教師からのこんな言葉が記されていた。
性的異常が見られます
「落ち着きがない」、「教師の話を聞かない」であれば珍しくはないが、「性的異常」にはなかなかお目にかかれない。子温少年は一体何をしたというのか。
答えは驚くほどシンプル。彼は、全裸で教室に入っていったのだ。
教師から「全裸」であることをこっぴどく叱られた彼は、これくらいではへこたれない。「全裸」がダメなら、と今度は下半身だけ丸出しにして教室に入っていく。「チンチンを出して教室に入ること」を禁止されると、今度はきちんと服を着て教室に入って行き、授業中にこっそりとパンツを下ろす。
一休さん並みのとんち能力で教師の裏をかく著者は、全裸では飽き足らず、校内新聞で「ただれた女の手記」という連載をしていたこともある。これはもう、立派な(?)性的異常者だ。
しかし、性犯罪者になることなく話題映画を作り続けていることからも分かるように、彼を突き動かしていたのは倒錯した性衝動ではなく、抑えきれない好奇心だ。こんな奇行も彼にとっては、「なんで服を着て学校に行かなきゃならないんだろう」という疑問と「服を脱いだときの皆の反応を見てみたい」という欲望から導かれた実験に過ぎない。
やりたいと思ったら、面白いと感じたら、その行動を止めることはできない。そこに道はなくても、他人から非道と言われても、園は自分を信じて疾走し続ける。本書には、園子温のジェットコースターのような非道の半生が、ものすごいスピード感で描き出されている。そこには、17歳のとき家出した先で出会った人妻と千葉で生活した話、画期的過ぎるアダルトビデオを製作して監督をクビになった話、謎のパフォーマンス集団「東京ガガガ」を結成して機動隊と仲良くなる話など、驚きのエピソードが満載だ。
走り続ける著者だが、ただ欲望の赴くままに生きてきたわけではない。メイドのいる裕福な家庭で、図書館並みの蔵書に囲まれて育った少年時代には、どうしても折り合いのつかない世の中への苛立ち、将来に対する漠然とした不安から自殺を考えたこともあるそうだ。園はとめどなく溢れるエネルギーをコントロールしきれず、日々葛藤していた。
詩、バンド、演劇、小説と手当たり次第に挑戦することで、著者はついに映画へ辿り着く。彼は、大学の映画サークルに入るやいなや夢中で映画を撮り続け、サークルの仲間から「映画しか撮らない付き合いの悪い奴」と言われる程に撮影に没頭した。
夢中であることと盲目であることはイコールではない。著者は良い映画を撮るため、その環境を整えるために、ときに戦略的な行動をとる。例えば、自主制作映画の登竜門と呼ばれる「ぴあフィルムフェスティバル」で園は、徹底的に選者の好みを調べて対策を練り、「撮りたい映画」ではなく、「賞の取れる映画」でグランプリと賞金300万円を手にした。
この資金を元に作られた映画『自転車吐息』は、後に10日間のレイトショーで2,500人という伝説的集客人数記録を打ち立てる。ただ内容が良いというだけでは、自主制作・自主配給映画にこんなに多くの人は集まらない。著者の非道なマーケティング手法が、これほどの人を動かしたのだ。
園は、映画ビジネスの肝を考えつくしたうえで、費用対効果の高いメディアは試写会とビラであると見極めた。同じところに目を付けた人はいたかもしれないが、著者ほど徹底して実行した人はいないと断言できる。自作のビラを書店のベストセラーに勝手に挟み込んだり、有名映画監督のトークショーではゲリラ的に映画の告知を始めたり、呆れるほどしつこく映画評論家を試写会へ招待したり、と知力・体力の限りを尽くすのである。その発想力と行動力には目を見張る。
著者がこんなにも全力で取り組んだのは、これらの行動が明日へ繋がっていると確信していたからだ。唯一無二の「今」に全力を注ぎ、刹那を後悔しないように生きる。本書からは全編を通して、著者の刹那にかける思いが伝わってくる。「今」に徹底してこだわって生きる著者だからこそ、その映画の登場人物から、瞬間を生きる懸命さ、必死さが伝わってくるのだろう。
10月20日公開の最新作『希望の国』で描かれる原発というテーマは、二度とない現在を重視する著者にとって、避けて通れないものであった。”園子温”の名前に寄ってきていた資金やスポンサーも、映画のテーマが原発であると分かると離れていき、その撮影には様々な苦労が伴ったようだ。何より、この時期にこのテーマで商業映画を作ることにどんな意味があるのか、被災者はどのように受け止めるのか、著者もこれまでにない葛藤を抱えていた。それでも園はこの映画を通して、「今」の空気を、情緒を、リアルを記憶することを選んだ。「思い出すからやめてくれ」を越えたところに、監督としての思いが込められている。
著者のこだわりは、当事者性という言葉でも表現されている。当事者になりきるために、当事者としての声を得るために、彼は取材時にテープやカメラを使用しないという。テープやカメラの前で語られる言葉は、どうしても客観的なものとなってしまうからだ。現場にどっぷり入り込み、自ら当事者に憑依することで、刹那にこぼれる言葉を著者は映画で切り取ろうとしている。
自分が面白いと信じるものを作り出すためなら、刹那に生きる当事者の今を記憶するためなら、既成の映画の枠組みなど関係ない。歴史性の張り付いた完成されたフォームなど、ぶち壊すから面白いのだ。「こんなの映画じゃない」は、著者の映画への最上の褒め言葉なのかもしれない。
難しく考えなくても、本書では著者の波乱万丈の人生や独自のアイディア発想法を堪能することができる。「飯を食うために宗教団体と左翼に入る」、「ホラー映画は激辛のカレー屋を目指せ」、「想像力を羽ばたかせない」、「自分が自分の関係者であるために」、という目次の小見出しからもその視点の面白さが伝わってくる。
しかし、この本は楽しい読書の高揚感、満足感だけにとどまるものではない。読了後にあなたは、ずっしりと重たいものを感じるはずだ。園は、「映画は巨大な質問状」であると言うが、本書もまた読者に質問を投げかけてくる。
あなたは、刹那を生きているか。
あなたは、自分の人生を生きているか。
あなたは、非道に生きているか。
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著者自ら商業映画の本当のデビュー作と呼ぶのが、4時間以上に及ぶ超大作のこちら。宗教にはまってしまった妹を救い出したと言う友人の話を基にして製作されている。「アートではなく、ケンカやホラーやパンチラやおっぱいで勝負した」いという思いを思いっきり注ぎ込んだこの作品にはとにかく圧倒される。こんなに長尺の映画の企画をどうやって通したのか、その非道の企画通し術も本書で紹介されている。
映画評論家の町山智浩氏が、自身の幼少時代に見てトラウマになっている映画を集めて解説している一冊。作品のあらすじから、映画作成の背景にあるアメリカの社会問題、監督や出演者たちの出自や葛藤にまで展開していく。紹介されている作品を観てみたくなるのはもちろん、その評論そのものが最上のエンターテインメントである。
『非道に生きる』でも大きなトピックとして取り上げられている当事者性に関する一冊。佐々木俊尚氏が新書にしては異例のボリュームで、現代の当事者性について迫っていく。震災後によくみられたマイノリティ憑依、弱者を勝手に代弁するひとたち、とはこの時代でどのような意味を持つのか。アウトサイダーではなく、インサイダーとして生きていくためのヒントがある。
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