優れた評伝である。歌麿の生涯と作品の見方を上質な推理小説を読むがごとく学ぶことができる。じつは歌麿の全盛期は風紀に煩かった寛政の改革と重なる。本書のテーマは幕府による度重なる狂歌や浮世絵に対する出版禁止こそが、皮肉にも歌麿を当代一の浮世絵師にまで押し上げたことを検証することだ。
2007年、ボストン美術館は秘蔵していた6500点の浮世絵を公開した。浮世絵は植物性の染料で印刷されているため、日光などで色があせる。そのため美術館は文字通り秘蔵していたのだ。本書の著者はそのありさまを取材したNHKのディレクターだ。このコレクションの公開があって、歌麿研究は前進したということらしい。
本書の前半分はあまり知られていない歌麿のエピソードを紹介している。水分に触れるだけで色が消えてしまう「つゆくさ」の染料を使っていたことや、まさに日本版ボタニカルアートともいえる細密画を描いていたことなど、知らないことばかりだ。
後半は寛政の改革によっていわば江戸を追い出された歌麿がどこでなにを学び、帰ってきた歌麿がなぜ大首絵という構図を造りだせたのか、町娘のような新しいモチーフの開発の経緯はどのようなものだったのか、などについて丁寧に記述が続く。このパートは著者による妥当な推論で補強されているため、論文とは違い味わいがある。
テーマとは別に本書で初めて知ったことも多い。このころの江戸では男勝りで伝法肌の若い女を「ばくれん」と呼んだらしい。歌麿がその絵を残している。袖を肩までめくって、蟹を丸ごと一匹持ち、ギヤマンのグラスで一気に酒を呷る娘の絵だ。間違いなくこの娘は歌麿の目の前にいたのだ。この娘を見るためだけでも江戸に行ってみたいものだ。
歌麿のパートナーとして書かれている、蔦屋重三郎のビジネス感覚もすごい。実際にも人気の黄表紙は1万冊以上も刷られていたというのだ。当時の江戸は100万人なので、現代に置きかえれば100万冊の大ベストセラーをどんどん出版していたことになる。
それにしても歌麿の絶頂と零落の落差は、現代の美術界ではあまり見られないものだ。現代の日本美術界は一旦大御所になると1号いくらの値段が付き、凡作やほとんど前作のコピーのような作品でも大金を得ることができるしきたりになっているらしいのだ。