「科学と宗教」という、既に語り尽くされたと思われるテーマに、無神論的心理学者の著者ジェシー・ベリングを向かわせたのは、母の病気である。ベリングが10代のころ、彼の母はがんと診断された。母の病状を聞いたとき、神の存在を微塵も信じていなかった彼の頭に、意外な言葉が浮かんだ。
神はぼくのことをほんとうに嫌っているんだ
反射のように浮かび上がった神を、ベリングは理性の力で即座に振り払った。母の症状が科学的に説明できることを理解していた彼の心にまで、神は間違いなく現れた。この経験以来、彼は信仰と本能の関係を研究し続けている。
「無神論的信念」と「神という心の錯覚」を同時に経験した、という思想家は多い。神を嫌悪、拒絶していたジャン=ポール・サルトルでさえ、神の声から完全に逃れることはできなかった。内縁の妻によるとサルトルは、「自分の生には生まれもった目的がある」という感覚を前にすれば、自らの無神論的確信が無力になることを率直に認めていたという。
生命の目的という概念は、目的を持った理知的創造者の存在を仮定しているため、無神論とは両立しない。サルトルの直感は、重々承知しているはずのこの理性的判断を、しばしば無意味なものにしたということだ。
本書には、信仰が生得的である証拠を示す研究が多数紹介されている。例えば、ボストン大の心理学者ケルマンによる実験では、7~8歳児は、自然界の無生物は目的を持って存在している(例えば、木は鳥が休むために存在する)という、目的‐機能論的推理を圧倒的に好む傾向が示されている。これは、親が宗教を信仰しているかどうかに因らない、普遍的な傾向だそうだ。学校教育を受けている多くの子どもは、10歳を越える頃から、目的‐機能論的説明よりも、科学的説明を選び始める。しかし、教育を受けていない大人のジプシーやアルツハイマー患者は、いずれも目的‐機能論的説明を好むという。
信仰は、科学の力で抑え込まれた、ヒトの本能なのか。
本書は、進化心理学の「心の理論」という概念を中心にこの問いに挑んでいく。「心の理論」とは、他者の心について推論する能力であり、他者の行動の予測や、他者との協調に欠かせない基礎的な認知システムである。このヒトにのみ与えられた認知能力こそが、現在の複雑な社会を生み出したと、著者は説く。
もし心の理論がなければ、あなたは人前で性交し、便を素手で投げつけ、弱った年寄りから食べ物を躊躇なく奪い取ってしまうかもしれない。他者に心を感じなければ、DNAの98.4%を共有するチンパンジーと我々の境目は、もっと曖昧なものだったはずだ。羞恥心やプライドのような複雑な社会的感情は、心の理論に基づく他者の視点あってこそのものである。
誰かに観察されているという意識が、人を向社会的にすることを示す実験結果は沢山ある。これは私たちが、以下のように推測しているからだ。
「反社会的行動を誰かに見られたら、その目撃者は別の人にその情報を伝えてしまう。」
他者には心があるという感覚がなければ、このような推測は困難である。
また、言語のおかげで私たちは、過去の出来事や抽象的概念までも他者に伝えることができる。そのため、一度知られてしまったあなたの悪事は、留まることなく広まっていき、あなたはいずれその集団にいられなくなる。この心の理論と言語のコンビネーションが、人間の進化に大きな影響を与えた。つまり、他者の不道徳的行為に関する情報の伝播によって、反社会的人間を見つけ出し易くして、不道徳者への淘汰圧を高めることに成功したのだ。
我々がいかにゴシップ好きであるかは、オックスフォード大の研究を見れば明らかだ。その研究によると、子どもはおしゃべりを始めて直ぐに、大人への告げ口を熱心に行い、その報告をやめさせるのはほぼ不可能だという。対照的に、子どもはほかの子どもの良い行いを、大人にはあまり話したがらないという。ヒトには、信仰だけでなく、タブロイド的内容を好む本能もあるのかもしれない。
噂話のターゲットにされないためには、そもそも反社会的行動を我慢する必要がる。そのためには、心の理論が有効なのだが、心の理論を発動させる都合のよい他者が常にそばいるとは限らない。他者などいないと思い込んで反社会的行動を働いたあなたは、知らない所からその乱暴狼藉を見られているかもしれない。そうすれば、あなたは噂話の中心人物となり、属している社会集団内で子孫を残せる可能性は減少する。
この危機を回避するために、絶対的道徳の視点から行動できる他者が常に自分を見ていると仮定することは有益だ。神、お天道様、死んだおばあちゃんのような絶対的他者の仮定は、心の理論を発動させ、反社会的行動を抑制してくれる。そうすれば、告げ口や噂話のターゲットとして社会から追放される恐れは減少し、より多くの子孫を残せるはずだ。このステップが繰り返されることで、現代の我々の脳の中に本能としての信仰が深く刻み込まれたのではないかと、ベリングは推測する。
この本能は、脳外科手術でもしない限り完全に取り除くことはできないかもしれない。しかし、私たちはお互いのために生きることができるのだから、錯覚に悩まされることがあったとしても、神の心など気にする必要はないと、著者は言う。
ヒトは、神のいない世界で、目的のない生を、厄介な錯覚を抱えながら生きていく。
ありもしない人生の意味が、頭をよぎる。
----------------------------------
心の理論が本当にヒト特有のものなのか、という議論はまだ完全に決着しているわけではないようだ。特に、チンパンジーについては様々な実験手法による、様々な論文が提出されている。本書は、血・脳・からだの視点から、徹底的にヒトとチンパンジーの境目を浮き彫りにする。2%のDNAの違いがなぜ、これほどまでに大きな違いをもたらすのかを巡って、著者は世界中を駆け巡り、日本でもお馴染の京大のチンパンジー、アイちゃんも登場する。著者が学者でなく、ジャーナリストであったがゆえに、様々な学説の学者の意見が幅広く紹介されている。今後のチンパンジーものの起点となる一冊ではないだろう。もし「チンパンジーもの」というジャンルが存在すればの話である。
本書でもたびたび引用されている、世界的大ベストセラーだが、やっぱり面白い。最初から最後まで、全速力で宗教を批判し続けるドーキンスの姿に、使命感や運命を感じ取ってしまうのだから何とも皮肉なものである。神の不在を証明できないことは、神が存在する蓋然性と神が存在しない蓋然性が等しいことを意味しない。ドーキンスは、科学の力で徹底的に闘い続ける。それにしても、アメリカ人の宗教に対する考え方には毎度驚かされる。
上記の『神は妄想である』の翻訳者でもある垂水氏による、ドーキンスともう1人のサイエンスライティングの巨匠スティーブン・J・グールドの論争をまとめた一冊。科学者が宗教をどのようにとらえ、議論してきたのか、更には、ドーキンスの徹底した姿勢がどのように培われたのかがよく分かる。新刊超速レビューはこちら
宗教をテーマに扱っていながら、『ヒトはなぜ神を信じるのか』では、宗教自体の起源や宗教毎の違いについては全く触れられていない。翻ってこの本では、原始社会における信仰の形態から議論をスタートさせ、現在でも世界に広まっている形での宗教にどのように発展していったかも詳しく論じられている。こちらの著者も、宗教を生み出す本能は進化的適応だったと説いている。