年が明けて間もないのに、驚くべき本が出てきた。というよりも驚くべき書き手が出てきたというべきであろうか。著者は2件の確信的殺人を犯した無期懲役囚である。もちろん服役中だ。
裁判では著者の性格鑑定が行われているのだが、その報告書において鑑定人は「当職は、30年の職歴の中でこのような奇跡的な知能レベルに遭遇するのは初めてであり、他の症例を調査しても前例がないことである。」と記している。じつはこの著者はとてつもない知性の持ち主なのだ。殺人者なのであるから知性ではなく知能だというべきかもしれない。そのことについては読者それぞれが判断するべきであろう。
著者はまず生まれてから収監されるまでの簡潔な自伝を記述する。粗野な在日韓国人の父と品のある美しい母、経済的絶頂と零落、商才と稼業、まるで典型的なヤクザ者の手柄話のような構成なのだが、どこかが違う。まず使われている言葉が異質なのだ。
「無謬性」「理非曲折」「人格神ではない天の存在」「倫理の対称性」など裁判で生半可に会得した法律用語とは異なるレベルの言葉を使う。取調べでは『罪と罰』のラスコーリニコフについての見解を検事に述べ、本文でもアメリカの政治哲学者であるハンナ・アーレントの言葉を引用したりする。
高度な知性を持つものが社会悪のヤクザ者を殺したという絵柄を描くためだとしたら手が込み入りすぎている。すなわち本書が社会で好意的に受け取られ、仮釈放が早まることを期待しているとしても、文字通りの無期が35年程度に縮まるだけだ。
第二章以降は12人の同囚受刑者へのいわばインタビューだ。獄中でその罪と心象風景を聞きとったうえで、最後の一人を除き、淡々と記述する。相手はすべて殺人犯である。このインタビューこそが本書の中核だ。罪と罰は均衡しているのか、矯正と刑罰は両立しうるのかという問いを司法と法執行に投げかけてくる。
とはいえ著者が問題を提示するのは抽象的なことだけではない。刑務所が悪党のパラダイスになりつつあり、犯罪や裁判のテクニックを学習する場所になっていることを憂慮し、より被害者への贖罪を促すための矯正の具体的案まで提示する。インタビューされている受刑者のほとんどは恐るべきモンスターである。著者の見立てでは矯正の可能性はないものが多い。
目障りなのは最後の「立派」なヤクザについての記述だ。明らかに賞賛しているのだ。ある意味で本当に「立派」な人物かもしれない。民事紛争などにおいて超法規的だが司法に委ねるより、よほど双方に納得可能性のある利害調整などをする「必要悪」のヤクザかもしれない。しかし、やはりこれは容認できない。顕微鏡的であっても必要悪を容認したのでは、いつかは必要な戦争をも容認してしまうことになるからだ。
ともあれ本書は「あとがき」をもってその存在を正当化できると思う。殺人者側から現代の「罪と罰」について考えさせられる稀有な1冊である。