食卓を語り、農業を語り、漁業を語り、そして林業を語る。この本は解剖学者である養老孟司が「本当の仕事」をしていると考える4人と対談した、対談集である。
4人とは岩村暢子。岩澤信夫。畠山重篤。鋸谷茂。それぞれ日本の1次産業で日本の今に接し、そのあり方に大きな疑問や提唱をおこなってきているスペシャリストだ。ひとまず目次を見てみよう。
第一章 現代人の日常には、日常がない 養老孟司×岩村暢子
第二章 田んぼには肥料も農薬もいらない 養老孟司×岩澤信夫
第三章 山と川に手を入れれば漁業は復活する 養老孟司×畠山重篤
第四章 「林学がない国」の森林を救う 養老孟司×鋸谷 茂
上記の目次を見てもらうと分かると思うが、これらの産業は人間の生活に、もっとも欠かせない産業であるということが共通している。養老孟司がこのような産業で頑張る人々に注目したのは、人間そのものを扱う解剖学者という視点から、つねに生と死を見つめてきたためではないだろうか。そして本書を読めば、この国は人間の基本に欠かせない現場が、どうしようもなく壊れてかけているという事実が浮かび上がってくる。
食卓の現場では、家族の絆がかなり変容している。家族が同じ食卓を囲むことは近年急速に失われつつあるようだ。1961年あたりから日本の約7割が核家族化した。「ややこしい人間関係を断ち切った人たち」の時代の到来、それは高度経済成長の過程で多くの若者が、故郷から断ち切られる形で大量に都市部に進出したことに端を発する。
その結果が今では盆や正月に帰る故郷も、集う一族も失っている人々を生んでいる。養老孟司はこの日本人の生き方を「絆をお金に変えてきた日本人」と表現している。
衝撃的なのは岩村暢子の調査結果だ。多くの家族がそれぞれ自分の好きな食事を、好きな時間に勝手に食べるという家庭が非常に増えているというのだ。「同じ釜の飯を食う」とい言葉があるが、赤の他人でも同じ釜の飯を一緒に食べることにより、一種の連帯感が生まれることは多くの人が経験したことがあるのではないだろうか。共に食事をすることの大切さが、ここからもわかると思う。
では食卓を共に囲まなくなったうえ、メニューすらも違うものを食べている家族の連帯感とは、いったいどのようになってしまうのか。岩村暢子の聞き取り調査では、そのような家庭では子供が何を食べたのか、また栄養バランスがどうかといった問題に母親が非常に無関心であることが明らかになっている。
そして食卓や家族の絆が喪失し始めた、核家族世代の子供達が大学生になったあたりの80年代に、新興宗教ブームや超能力ブームが日本中を席巻したことは、家族に代わる信じられるものを探した結果ではないのか、現在増えている生活保護受給者世帯の急増は、経済問題よりは家庭の問題ではないかといった興味深い話へと発展していく。
ややこしい人間関係からの開放は、しがらみの強い社会に少年時代を過ごした団塊の世代からすると、むしろ素晴らしいことだったのかもしれな。私も「個人」が非常に尊重される時代に育ったため、強すぎる社会のしがらみには怯んでしまう面がある。しかし、対談をする2人は自立なき「個」が結局は現在の若者達の、あてのない自分探しや、職場での叱責から立直れない若者を育ててしまったのではないかと話す。すべての若者がそうだとは思わないが、肝に銘じておくべきことかもしれない。
養老孟司にいたっては「人生の意味は自分の中にはない」とまで言いきる。養老孟司の、この言葉の真意をぜひ本書を読んで確かめて欲しい。
第二章は不耕起栽培についての話だ。「田畑を耕さない?そんなこと出来るの?人類は数千年も大地を耕し、こねくり回して生きてきたのに」それが私の第一印象だった。だが、なんと今では農業大国アメリカの全耕作地50%以上が不耕起栽培になっているという。
岩澤信夫が最初に不耕起栽培に取り組むようになったのはオーストラリアに帰化した日本人が考え出した「乾燥地農法(ドライ・ファーミング)」の論文を読んだことによる。しかしこの方法は日本の風土には合わず、その後は長い時間をかけた試行錯誤を経て、不耕起冬季潅水農法を編み出すにいたる。
従来の農法では冬場に田の水を抜き5、6回は耕す。しかし、不耕起冬季潅水農法では田を耕さず、冬場も水を張っておく。収穫後に残る刈られた稲の茎やワラが水の中で腐敗を始め、土壌に栄養を与える。そして田を耕さないためにイトミミズが大量に発生するようになる。10アールあたり1500万匹もイトミミズが発生した田んぼもあるようだ。するとイトミミズのトロトロの糞が、雑草の種を覆い田んぼに雑草が生えない。しかもトロトロの糞の層は、膨大な肥料分が含まれ、うっかり施肥をすると逆に窒素過剰で稲が枯れるほどだ。これで除草剤も科学肥料もいらない米作りができる。
不耕起冬季潅水農法の土壌は耕作した田んぼより硬いため、稲の根にストレスがかかり、エチレンという物質が放出され根が太く丈夫になる。不耕起冬季潅水農法は、本来の稲が持っている自然の力を引き出す農法だ。自然の力を取り戻した稲は冷害にも強く、従来の農法の稲より多くの米を実らす。
将来的に科学肥料の原料になるリン鉱石は、枯渇することが懸念されており、リン鉱石の囲い込みなどの政治的動きも懸念されている。科学肥料に頼らない農法とはある意味で、安全保障問題にすら直結する可能のある農法ではないだろうか。
水の中で腐敗したワラはプランクトンの発生をうながし、大量のタニシ、ドジョウ、メダカが育ち、昆虫にも恵まれる。自然にとてもやさしい農法だ。養老孟司の話では、今は虫を捕まえるのに、田んぼには行かないそうだ。普通の田んぼには虫がわかないのだ。虫は「わく」と表現されるほど、何処にでもいるのが普通だ。虫がわかない田んぼなど、想像しただけでも不気味だ。
いっぽうで不耕起冬季潅水農法の田んぼでは環境の変化に敏感な、蛍が戻って来ている。蛍が棲める田んぼのお米なら、高いお金を出して買ってもよいという顧客も近年は増えているそうだ。自然を尊重する農法が付加価値を生む。
だが日本の農業の現場では、このような成功例は少数派だ。現在も補助金ズブズブの現状がリアルな農業の姿だ。岩澤信夫は「自分の失敗はここまで来るのに時間をかけすぎた」と嘆く。残念なことに岩澤信夫は今年の五月に亡くなってしまった。彼の冥福を祈りつつ、その意思を継ぐ若い世代の奮闘に期待したい。
まだ第三章、第四章が残るが、字数の問題もあるのでここらあたりで終わりにしよう。本書はひとつひとつの章が独立した対談だ。しかし冒頭の目次を、見てもらうと大切な事に気づくと思う。まずは食卓、次は食料を作る農業と漁業。そして農地や海を育むのに欠かせない山へと続いている。個々の章を別々に考えて読むというより、それぞれの現場を個別に理解しながらも、物事の繋がりを感じながら読むことが出来る。これらの現場が繋がっているという事実が、なにより忘れてはならない大切なことように思える。
日本の一次産業は、縮小と後退をよぎなくされているように見える。しかしこのようなときにこそ、新しい視点や価値観で大きな転換を計るチャンスなのかもしれない。人間が生きていく上で欠かせない生命に直結した、これらの産業をないがしろにして、日本の未来に何が残るのであろうか?本書は真剣に日本の一次産業で活躍する人々の言葉を聴くことが出来る本だ。
対談形式で読みやすく、値段も740円(税別)だ。あなたが彼らの言葉に耳をかたむけ、日本の大地に、海に、そして人々の絆の問題に希望のヒントを見出せれば、本書は740円の投資額をはるかに上回るものをあなたに与えてくれると思う。
資源は有限だ。継続可能な水資源を枯渇させてしまうことが、いかに人間にとって脅威となるか。いくつもの古代文明を丹念に調べ上げ、水資源と人間との関係にせまる渾身の作品。
革新的な林業経営に挑む速水林業の経営者、速水亨自身の著作。「100年先の森を考えることが林業家には必要」実に特殊な産業だと思う。