日本語には相反する意味を持つことわざが、非常に多い。
「好きこそ物の上手なれ」と「下手の横好き」
「君子危うきに近寄らず」と「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」などなど…
「蛙の子は蛙」と「鳶が鷹を生む」の関係も、その典型的な例と言えるだろう。前者は子の性質や能力は親に似るものだということであり、後者は突然変異のように優れた子供が生まれるケースを指している。
「どっちやねん」とでも言いたくなるところだが、両親から遺伝子とともに素質も引き継ぐのが通常 ー そんな感覚が、どちらのケースにおいても根底に潜んでいるのだと思う。
ヒトの才能・身体能力をめぐっては、古くから「生まれか育ちか」という論争が繰り広げられてきた。身の回りを見渡しても、”生まれながら”と言いたくなる人もいれば、育ちで克服したとしか言わんばかりの”努力の人”もいる。
それは両方だろうというのが大方の意見とも思われるが、その相関関係は一体いかなるものなのか? 本書は、数々の天才研究の成果や、遺伝子・ゲノム理論、発達心理学などの研究を元に、それらを解明しようと試みた一冊である。
著者によると、遺伝子の役割は大きく誤解されてきたのだという。世間にはびこる誤解と紛らわしい比喩表現のせいで長いあいだ流布してきた「才能は遺伝である」という考え方。このような「生まれつきの才能」という神話が廃れないのは精神的に楽であるからに過ぎないと、 冒頭から鼻息が荒い。
本書で紹介されているのは、遺伝子と環境の動的な相互作用を重視する「相互作用論者」と呼ばれる人たちの説である。彼らはそのプロセスを「遺伝子(gene)×環境(envioronment)」、略して「G×E」と呼ぶ。
これまでの定説では、まず遺伝子が舞台を整えることがありきであった。遺伝子によって配られたカードで最初の手が作られたあと、我々はようやく環境の影響を付け加えることが出来るとされてきたのである。
この新しいG×Eという動的モデルは、静的モデルである従来のG+Eとはまったく異なるものである。遺伝子が基盤をつくり、そのあとで環境が影響を及ぼすのではなく、遺伝子が環境に合わせて自らを表現するのだ。
遺伝子と環境は、単語と文字、自動車と部品などと同じく、分けて考えることの出来ないものであるそうだ。そして、この理論において重要視される環境因子の影響の大きさというものを、数々の実験結果から明らかにしていく。なにしろ全422ページのうち半数近くのページを、これらの根拠となる資料の注釈に割いているのだ。
そのうえで「生まれか育ちか」という観点は「動的発達」に置きかえられるべきだし、知能はものではなくプロセスであると、著者は強く主張する。
このような環境因子の価値を認識する一方で、遺伝子の重要性も決して無碍にはできない。本書では、遺伝子は完成した青写真というよりも 、 22,000個のすべてが ボリュームつまみと電源スイッチのようなものであり、体の細胞ひとつひとつの内部に巨大なコントロールボードがあるようなものであると説明されている。
本の読み聞かせは遺伝子を発現させ、話しかけは遺伝子を発現させ、助言を与えることは遺伝子を発現させる。遺伝子は、われわれがどんな人間になるのか命令する存在でこそないが、変化の主体でありプロセスを推し進める要素の一つとなっているのだ。
これらの考え方の背景には、最近注目を集めるエピジェネティクスと呼ばれる研究分野の存在がある。遺伝子自体は世代間で変化しないが、後成遺伝物質の指令は変化しうる。ざっくり言うと、ライフスタイルは遺伝に変化をもたらすことがあるということだ。
これを受け、本書の後半の展開は実に変わったものとなっている。遺伝子は我々が思うよりも制御可能であり、環境は我々が思うほど制御可能ではないと位置づけ、環境をどのように整えるべきかという議論へ発展していくのだ。これは、遺伝子によって決められた未来を、環境が解き放つという、従来の固定概念とは正反対のものである。まさに「水は方円の器に随う」のだ。
分野を問わず、本当に傑出した技量を手に入れようとするならば、恵まれた環境のもとで10年間に1万時間以上の訓練時間を費やさなければ、到底おぼつかないそうだ。これはテッド・ウィリアムズ(メジャーリーガー)、マイケル・ジョーダン、モーツァルト、ヨーヨー・マ、アインシュタインなど、有名人たちのエピソードからも立証されている。
「ものがよく見えたのは、それだけ真剣だったからだ。並外れた視力ではなく、並外れた鍛錬のおかげだった」(テッド・ウィリアムズ)
「私は、何度もつくりかえ、捨て、再度試したのち、ようやく満足する」(ベートーヴェン)
「僕ほど作曲のために時間をかけ、熟考を重ねた者はいませんよ」(モーツァルト)
「私はとくに賢いわけではない。時間をかけて問題に向きあっただけなのだ」(アインシュタイン)
これらの環境というものを広く捉えると、優れた業績をおさめた背景にどのような文化があったのかというところにまで行き着く。歴史には、大きな成果が集中するクラスター期と、成果がまったくないブラックホール期がいくつもある。例えば、古代ギリシャの時代には、市民に人間の理想の達成を実現させるべく援助する制度があり、公共空間、公衆教育や慣習まで、常に競争心を奨励する構造になっていたのだという。
どのように才能を獲得するかという手法を述べるにあたり、精神論に終始してしまう本というのはよく見かける。本書では、環境を整える方向に努力するというスコープの絞り込みが、単なる自己啓発書のようなものと一線を画するところではないかと感じる。
遺伝子周りの話というのは、本当にややこしい。知れば知るほど分からないところが増えてくるという印象である。それを天才論という文脈から眺めることによって、腑に落ちる点まで持っていく著者の手腕には頭が下がる思いだ。これで安心して、「天才」を目指すことができる。(嘘)
一方で、「天才」になど興味がないという人にとっても役立つ点はあるだろう。「生まれか育ちか」という論点に限らず、古くから存在する二項対立の構造というのは、あちこちで見かけるものである。これを、どのようにポジティブな方向へと誘うのか。そんなコミュニケーションとしての観点から読んでも、得るところの多い一冊であると思う。
—————————————————————–
副題に「すべての能力は遺伝である」と書かれている。ここだけ見ると、本書とは真逆の内容が書かれているのかのように思えるのだが、中身を追っていくと大部分の主張が本書と非常に近いものとなっている。この手の領域では双子の実験結果がよく使われるのだが、そこでの解釈の差がこの違いを生んでいるように感じた。
本文中でも触れたエピジェネティクスに関する入門書がこちら。
生命の神秘を解明するために、数学がどのように使われてきたのか?そんな生命科学と数学が交錯する場所の最前線。