これほど「はじめに」と「おわりに」の内容が異なる本もめずらしい。「はじめに」では筆者はデジタル復元の方法論について述べている。デジタルによる色彩再現法だけでなく、「美術的背景を専門的に把握し十分に考慮すること」を強調する。読者はデジタル復元の入門書だと暗示される。
ところが「おわりに」では「日本人は日本美術を美術とは思っていなかった」とし、ロラン・バルトを引用しながら「参加する視線」が日本美術の鑑賞には不可欠だというのだ。著者は本書で日本美術の新しい鑑賞法を提示したとする。
したがって本書のつくりは、デジタルという言葉で日本美術にあまり興味のなかった読者層を獲得。序章で超絢爛豪華だった東大寺の大仏殿を復元することで度肝を抜き、章が進むにつれ日本美術はある意味で触れて楽しむモノだったと理解させる。
この著者の主張には100%賛同するものだ。17世紀だけをみても、メディチ家のウフィツィ美術館に収蔵されることを目的に「美術品」として制作されたヨーロッパ絵画と、屏風絵や錦絵などは全くことなる出自の美術品である。
ただし、著者は東大寺大仏殿が日本人であればだれでも大宇宙を体感するための空間だったとし、日本美術特有であることを匂わせるのだが、バチカンのサンピエトロ寺院でも宇宙の中心にたった錯覚を起こすことは間違いない。宗教建築においては洋の東西を問わず同じ論理構造を持つのかもしれない。
ともあれ、立ち読みでもよいので34ページの伐折羅像の復元写真を見てみてほしい。当時はこんなド派手な神仏が目の前に立っていたのだ。炎神戦隊ゴーオンジャーも真っ青である。
じつは、ほっそりとして美しい広隆寺の弥勒菩薩半跏像ももともとは厚い乾漆で覆われていて、表面は金箔と彩色が施されていた、全くことなる仏像だったのだ。この仏さまだけはデジタル復元はせずにいまのイメージを保ってほしいような気がする。