『人はお金だけでは動かない』 – 人間へと立ち返る経済学の現在

2012年9月9日 印刷向け表示
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人はお金だけでは動かない―経済学で学ぶビジネスと人生

作者:ノルベルト・ヘーリング
出版社:エヌティティ出版
発売日:2012-08-27
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「ところで―」

男が問いかけてくる。「君は1日に、どのくらいテレビを見るのかね。」

そして、諭すような口調で続ける。「30分未満がいい。長いことテレビを見ていると不幸になる。2時間半も見ようものなら、もはや両脚をどっぷりと不幸に埋めているようなものだ。」

すると、別の男が横から口を挟む。

「それでも、仮に君が左利きだったとするならば、運命は変わってくるかもしれないね。君に学位があるならば尚更だ。なにせ学位がある左利きの男は、同じ条件の右利きよりも15パーセント多く稼ぐというのだから。」

本当にそうだろうか、という疑問が頭をもたげてくる。

人の幸せは、必ずしもカネじゃない。たとえ俺の年収が倍になったとしても、他の皆が3倍になっていたら、きっと俺は惨めな思いをするだろう。絶対額の多寡だけで、幸せなんて本当に語れるのか。

そんなことをぼんやりと考えていると、隣に座っていた紳士がつぶやく。

「そういえば君はオランダで育ったんだったね。君のその高い身長もお国柄というわけか。最近のアメリカ人は横に大きいばかりで、身も心も小さいヤツばかりさ。」

さて、ここで質問だ。決まった答えなどないのだから、自由に考えてみてほしい。

彼らは何者で、今、どこにいるのだろうか。

この問いに、本書は1つの回答を提示している。

つまり、彼らは経済学者であり、そして実験室で語り合っている、ということだ。

本書の原題は『Ökonomie 2.0(英訳はEconomics 2.0)』、つまり新たな経済学だ。ではその特徴、つまり経済学における「2.0性」とは何だろうか。この点については、アクセル・オッケンフェルが寄せた端的にしてクリアな序章「ドグマからデータへ」の一節に、見事に凝縮されている。

この二十年、経済学はめざましい進化を遂げた。経済学者は、人間や人間がかかえる問題にだんだん歩み寄っている。(中略)ドグマではなくデータこそ現代経済学の共通項だ。こうした進歩の原動力は、ゲーム理論と、それを検証する実験経済学という、ふたつの新しい科学的方法が見いだされ、用いられるようになったことだ。

人間というものを、経済合理性に基づいて、常に自己利益の最大化を目指して合理的に行動する「ホモ・エコノミクス」として捉えることを暗黙の前提としていた従来型の経済学から、もはや経済学は大きな変貌を遂げている。今、経済学は「人間」に立ち返ろうとしている。必ずしも合理的でもなければ公正でもなく、社交的で、いつだって隣人のことが気になって仕方がない、そんなごく当たり前の人間というものに。ただし、彼らは心理学者でもなければ、文学者でも、社会学者でもない。あくまで経済学者だ。そんな彼らにとっての「人間」、あるいは「人間性」というのは、結局のところ、膨大なデータと高度な数学的手法の先に差し込む一筋の光のようなものなのかもしれない。

こうして「人間」をその研究の中心に据えることになった現代経済学が取り扱うテーマは、極めて多岐に渡っている。最低賃金と失業、グローバル化、金融市場、企業経営、人事評価といったお決まりのテーマは勿論のこと、文化、宗教、スポーツ、あるいは身長や容姿、男女の性差に至るまで、あらゆる物事が「経済学的に」研究されている。こうなってくると、いまや経済学が問題にしない問題を探す方が困難なのかもしれない。

ここでようやく、冒頭の男達のことをもう一度振り返ってみよう。

スイスの経済学者ブルーノ・フライの研究チームによると、テレビの視聴時間と幸福感には相関性があるそうだ。誰しもが、自分にとってちょうどいいと思う程度にテレビを見ているつもりかもしれないが、実際には多くの人がテレビの視聴時間をうまく管理できず、やや見すぎてしまうそうだ。彼らの研究結果は、1日の視聴時間が30分未満の人は、もっと長い時間をテレビに費やしている人たちよりも幸福度が高いことを示している。ただし、退職者や失業者といった自由な時間の持ち主達だと、テレビの視聴時間と生活満足度に相関関係はないようだ。

『ジャーナル・オブ・ファイナンス』という著名誌に掲載された3人の研究者による論文「利き手と稼ぎ(Handedness and Earnings)」によると、左利きの人は、対等の右利きの人よりも平均して15パーセント多く稼ぐ。ただ、本書では「少なくとも(そして唯一)、男性で学位がある場合の結果だ」という紹介になっている。この胡散臭さはなかなかのものだ。

「幸福の経済学」には様々な系譜があるようだ。リチャード・レイヤードはその信奉者として、現代の成果主義社会は人を幸せにしないと主張している。オーソドックスな学説とは異なるのかもしれないが、限界所得税率の引き上げによって、幸福を蝕む過度の競争をなくすべきだというポジションを取っている。その一方で、満足や幸福に関する人の認知などあてにならず、アンケートで幸せだと回答した人間が本当に幸せとは限らないと考えるアマルティア・センのような学者もいる。これはただ1つの正解に収斂していく類の問題ではないとは思うけれど、少なくとも、カネだけが全てではないというのは、実感としても真実なのだろう。

1人あたりの国民所得でみれば、アメリカはヨーロッパ諸国を凌駕している。それでも、アメリカ人の生活水準がヨーロッパ人よりも本当に高いのか、という点について言えば、大いに疑問の余地がありそうだ。人体測定学者による研究が進んだ結果、20世紀初頭には世界で最も背が高かったアメリカ人は、1960年以降その成長をストップさせてしまい、女性に至っては平均身長が縮んできているということが明らかになった。現在、世界一の高身長を誇るのはオランダ人だが、わずか140年前には、彼らの平均身長はアメリカ人と比較して7cmも低かったという。今ではアメリカ人よりも6cm高いというのだから、生活水準というのもなかなか捉えがたい代物だ。

本書では、他にも豊富な実験例が紹介されている。経済学という言葉の響きに構えずに、所詮はカネの話だという偏見に縛られずに、気軽に読んでみてほしい。人間という原点に立ち返ろうとする経済学の地平が、平易な言葉の端々からきっと垣間見えてくるはずだ。

ただし、1日のテレビ視聴時間が30分未満で左利きのオランダ人がハッピーかどうかは、私には分からない。

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本書にも解説を寄せている大竹文雄氏の好著。経済学を身近なものにしてくれるという点で、本書は外すことができない。

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日本のビジネスマンにとって、行動経済学というものを知るきっかけを作ってくれた1冊。『予想どおりに不合理』というのも言い得て妙なタイトルだ。読者の興味を巧みに引き寄せながら、常識的な感覚というものを裏返してみせてくれる。

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一方で、正反対のタイトルでもベストセラーに名を連ねてくるのが経済学らしいところだ。「経済学は、ふたりの研究者がまったく正反対の結論に達してノーベル賞を受賞した唯一の学問である」というのも頷ける。

人は意外に合理的 新しい経済学で日常生活を読み解く

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