猫と蛇ほど様々な顔を持つ動物もいないだろう。どちらも賢く、セクシーで、時折邪悪なものの化身とされる。それゆえに不思議な魅力がある。魔性、と言ってもいいかも知れない。
だが、両者の扱いは決定的に異なる。
猫の持つ、死者を操るような魔性や、谷崎潤一郎の小説に代表されるようなエロティックな側面は、今や「可愛らしさ」に覆い隠されてしまっている。動画投稿サイトに氾濫する猫動画や、癒しの場としての猫カフェなどがその代表例だろう。そこにいるのはころころと可愛らしいだけの生き物であり、人間に仇なす存在ではない。
転じて蛇はどうだろうか。蛇を可愛いと愛でる層は依然として少数派であり、私の祖父の住む地方では、水神として崇める風潮はすたれていても、神聖なものとしての見方がまだ強い。ともすれば人間を脅かしかねない、そんな不穏な気配をまだ漂わせているのが、蛇という存在だ。
そんな蛇を、ファッションという一つの軸で考察しているのがこの本だ。本書では、蛇が様々な媒体で、どのようにモチーフとして使われているのか、六つの側面から説明している。
エロティック、ユーモラス、グロテスク、ファッショナブル、幸運をもたらすもの、インテリジェント。
筆者は蛇が持つこれら六つの顔を、絵画やアクセサリーを始め、小説・CM・香水の広告や、乳癌の特集に使われた写真などを引用して紹介している。
蛇と言えば真っ先にイヴをそそのかす旧約聖書のそれを思い出す方も多いだろう。そのイメージを圧倒するほどに、エロティックでグロテスクで賢くて、ちょっと不思議な蛇の姿が展開される。
本書に出てくる蛇の姿を少し紹介してみよう。
川上弘美の小説「蛇を踏む」に出てくる、人間社会に溶け込んだ、ほのぼのとした蛇たち。そんな蛇の姿があるかと思えば、団鬼六の「花と蛇」のように、醜悪で下劣な蛇の姿もある。かと思えば、弁才天の化身のような、崇高で賢い蛇のイメージもあって、蛇の姿は万華鏡のようにくるくると変わってゆくのだ。
とは言え蛇の使いどころは意外と難しい。手足や瞼がなく、それゆえ表情の読めないあの生き物は、ともすれば不気味という印象を与えかねないからだ。
例えば、シャネルの香水「チャンス」の広告。有名なファッション雑誌「ヴォーグ」ではリアルな白蛇が使われているが、他の雑誌では香水の瓶を強調するばかりで、白蛇は使われていないそうだ。
筆者はそれを、「ヴォーグ」が『ファッションレベルの高い大人向きの雑誌』なので『不気味だが文化的なグラビアを提供』できたからではないか、としている。
私はここに、蛇が猫ほど受け入れられない理由があると思う。
猫は何の予備知識もなくても「可愛い」「セクシー」という印象を抱くことができる。どこから見ても万人が同じ感想を持つことができる。それは猫に関するイメージが共通しているからだ。
だが蛇は違う。蛇は様々なイメージを持ち続けている。そそのかすものとしての蛇、脱皮し再生を象徴するものとしての蛇、水神としての蛇。
多種多様な蛇の姿の中に、愚鈍さを思わせるものは見当たらない。ヨーロッパの人々のみならず、日本人やオーストラリアのアボリジニたちの間にも、蛇は知性を感じさせる生き物であるといった認識はあった。アボリジニの民話に登場してくる蛇は、かつて暴君であったイグアナを言葉巧みに騙し、その脅威であった毒の袋をまんまと奪い取るといった狡猾ぶりを見せている。筆者に言わせれば『蛇は国際的に賢かった』のである。
これらのイメージを蛇に重ね合わせ、自分なりの意味を見出すことができる者が、蛇を好み、身につけるのだ。
その点で蛇は通好みの動物と言えるだろう。蛇のモチーフを身につけ、愛好することは、蛇の持つ知性を自らも有していると主張することと同義なのである。