一瞬、何かの間違いではないかと思った。著者が『新ネットワーク思考』でネットワーク社会の新たな扉を開いたバラバシであるならば、情報科学がテーマとなっていることだろう。そして翻訳者が青木 薫ならば、そこに数学や物理などの自然科学が絡んでいるはずだ。しかし本書の中身は、大半が中世十字軍の話で占められているのである。
もう少し中を見ていくと、さらに奇妙なことに気がつく。中世十字軍の話は偶数章のみで、奇数章では現代のネットワーク関連の話が多岐に渡って紹介されている。それも、FBIにマークされて自分の位置情報をアップし続けた男の話、ドル紙幣の追跡サイトWheresGeorge.comの話、ハンガリーのポータルサイトにおけるサイト訪問者の法則など、一風変わったものばかりだ。
この本は、一体どうなっているのか?そんな不安が期待へと変わるのは、第7章の最後のあたり。
第1章から本章までのあいだにしてきた話は、わけのわからない謎ばかりだった。
これまで見てきた中世の物語も、いまの段階ではわけがわからないだろう。
そろそろ、さまざまな話の糸を一本によりあわせよう。
ここから本書は、一気にギアが入る。
ビックデータの時代と言われて久しい。確かにデータは日を追うごとに増える一方だ。しかし集められたデータからは、一体何が見出せたのか?そして、それらはどのように活用されているのか?
パーソナライズドされたレコメンデーションと言えば聞こえは良いが、かゆい所に手が届くという域には達していないのが実情だろう。むしろ、自分の近くをかすめているがゆえに、不気味さは増す一方である。
人類、そして科学が未だ到達できない領域、それが各個人や人間社会のふるまいというものだ。そんな人間の行動そのものを、自然現象のように方程式であらわすことは出来るのか、それが本書のチャレンジである。これを著者は、世の中全体を実験室に見立てて検証していく。
たとえば、あなたの電子メールがどのような頻度で送信されるかを思い返してみてほしい。短時間に集中して多くのメールを出したあと、今度は一通もメールを出さない期間が長きにわたり、ときには数日に渡って続いていたりはしてないだろうか。
短時間に集中して何かを行うことで、そのあとには長い沈黙の時間が訪れる。これが本書の標題ともなっている「バースト」という現象である。このバーストをより具体的にイメージするためには、電子メールの送信間隔をグラフにしてみると話が早い。ロングテールの説明などによく登場する、「ベキ法則」の形そのものが現れてくるのだ。
この現象が凄いのは、適用できるものが電子メールのパターンのみに留まらないということだ。図書館利用の頻度、電話をかけるパターン、写真をネット上にアップロードする頻度、プリンターの出力頻度、ありとあらゆる領域にバーストは出現してくる。
さらにこの特性は、電子時代特有のといったような、時代の制約を受けたものではないということも明らかとなる。アインシュタインやダーウィン、彼らの文通パターンにもバーストを見ることができたのだ。
いつの時代にも、さまざまな領域でパラダイムシフトというのは起こる。これは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想ががらりと変わることを指す。しかし変わるものがある一方で、全く変わらないものもある。このバーストという現象は、まさに時代や分野を超えた法則たりうるものであったのだ。
バーストが起きるためには、ある条件が揃わなくてはならない。それは人間によって優先順位付けが為されるということだ。重要な課題がいち早く遂行される一方で、遅れに遅れてリスト上で半永久的に待たされる課題というのも存在することになる。このような優先事項が働きはじめることにより、ランダム性は消失し、代わりにバーストが現れてくるのである。
それにしても、なぜバーストはこんなにも人間と密接したところに頻出するのか?それはバーストの根源が、人間の意思や意識よりもっと基礎的なところにあったという可能性が示唆されている。
多くの動物たちはある領域で長時間にわたって食物を採集したあと、どこか遠くの場所に移って新たに食物探しを始めることが分かっている。こうすることによって、同じところを何度も探してしまうという余計な反復を避けることが可能になるためである。この狩猟採集時の特性が、今もなおバーストという形で残されているのではないかということなのだ。
つまり、あるターゲットを突き止めるのに最も効率のよい戦略は、最も明白で秩序のとれた規則的な戦略ではなく、バーストを含んだ断続的な、あえて言うなら、でたらめな探索戦略ということになる。
無作為性と法則性 ― この一見、対極にあるかのような両者が、全編を通してシーソーゲームのように役どころの入れ替わっていくところが、何とも興味深い。ポアソン分布などで示されているように完全にランダムであるということは、それ自体に規則性を帯びてくるし、バーストのように規則性からランダムが生まれるということもあるのだ。
おそらくこのあたりに、僕がバーストというアルゴリズムに好印象を持つ所以がある。バーストという法則が教えてくれるのは、まさに「予測どおりに予測不能」ということなのだ。これだけ強力な方程式に支配されながらも、本書の登場人物たちの人生が、どれほどバラエティに富んでいることか。
一方で本書が面白いのは、この本を全く逆の文脈で読み解くことも出来るという点である。データの質と量、PC性能の向上などにより、自分がどれだけ自発的にふるまっているつもりでも、その行動は案外周りから予測されやすいという一面も、たしかに存在するのだ。
これは、予測の対象をどれくらいのスコープで考えるかということによって、変わってくるのだと思う。たしかに個人の日常的なレベルに絞り込めば、予測可能性がかなり高くなるのは事実だろう。しかし、そんな人でも非日常な要素は持ち合わせているだろうし、そこに日常的な外れ値としての行動を取る人物が絡んでくることもある。これらを社会全体の系として捉えたときに、はたしてどこまで未来は予測できるのか。
また、本書において飛び石のように展開されていく中世十字軍の話も、非常に読み応えがある。ドージャの乱と称され、世界的にはあまり知られていないハンガリーを舞台とした十字軍の話である。主人公であるジェルジュ・セーケイの軌跡は、多数の短い旅のあいまに少数の長距離飛躍が挟まっており、その遠くに飛んだ先からは新たに人生が再開される。そして最後には予測もつかないような未来が彼を待っているのだ。彼こそが、まさにバーストの象徴だったのである。
突き詰めると本書で問われているのは、人間行動の予測可能性というものだ。個人的には、方程式に過去を代入して未来がわかるなんて、なんてつまらない世の中なのだろうと思う。それでも人間は分からないという理由だけで、未来を知りたがる生物なのである。そして未来を知るための手掛かりは、驚くほど身近な場所に散らばっていたのだ。そんな身の回りのバーストを、皆さんも探してみてはいかがだろうか。
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ネットワーク科学の大家にして「人間に未来予測はできない」と断言しているのが、本書『偶然の科学』。未来の偶発事件に対する準備をしておき、現場で起きていることに素早く対応していくことが大事と主張する。高村和久のレビューはこちら
大量データ解析に基づく「絶対計算」と呼ばれるものが、いかの世の中を変えているかという一冊。統計分析が本当の意味で力を持つためには、意志決定者に伝える伝達メカニズムが重要であるという視点も面白い。
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