そもそもファシズムとは何か、というのは結構むずかしい。手法が強引な政治家あらばやたらファシスト呼ばわりもされたりするが、安易な使われ方は矮小化につながりかねないという気もする。どのような条件下でどういう状況が完成すれば「ファシズム」なんだろう。
本書においてファシズムとは「資本主義体制における一元的な全体主義のひとつの形態」だとして、「強力政治や総力戦・総動員体制がそれなりに完成してこそ日本がファシズム化したと言える」という。それならば、戦前の日本はまさにファシズムが完成していたのでは? といいたいところなのだが、じつは「実態はそうでもなかった。むしろ戦時期の日本はファシズム化に失敗した」というのが本書『未完のファシズム』の視点である。
著者がまず注目するのは、青島戦役だ。第一次世界大戦は“戦争は軍隊だけがやるものではなく国家国民を総動員して行う時代”の幕開けだった。国家の生産力・物量が勝敗を決める。それを欧州各国は多大な犠牲を払って学んだ。ところが日本はドイツに対して宣戦布告するものの、青島をあっさり攻略して戦勝国に名を連ね、むしろ大戦による好景気に湧いて浮き足立ってしまったというのが戦後の一般的な通念だろう。
が、本書によれば、その“あっさり落ちた青島”で、実は日本陸軍中枢も“物量戦の時代”を充分意識し、日露戦争以後の日本陸軍近代化のほどを実験し、その結果も詳細に分析して、“突撃精神主義”の時代が終わったことを学んでいたという。青島の数日間で、日本が放った砲弾の総鉄量は、日露戦争の足掛け6ヶ月に及ぶ旅順包囲戦のときの4割に相当する。精神ではなく物量が決め手だった。“20世紀の戦争”を青島で経験したのだ。
日本陸軍中枢は第一次世界大戦で学ぶべきことを学んでいた。それは“日本には総力戦・全面戦争は出来ない”ということだった。青島のような物量が追いつく限定的な戦闘ならば勝てる。しかし、国家の総力が問われる全面戦争には絶対に勝てないだろう。したら“終わり”である。青島で勝つことで、皮肉にも日本陸軍は己の限界を知ったのだ。日本の“破滅への道”は、無知からではなく、むしろ己の限界を“知ってしまった”ところからこそ始まったのだという逆説が興味深い。この“勝てない”というどうすることも出来ない現実と、“だからといって戦えないとは口が裂けても言えない”という建前のなかで、彼らはもがく。
小畑敏四郎は、表向きは“どんな強敵にも包囲殲滅戦でゆけ”と言いながら、本音では“奇手奇策が通用する、いわば勝てる条件が揃った相手とのみ限定的に戦う”という二重性に至る。石原莞爾は“持たざる国・日本には総力戦に勝つ能力がないとしたら、世界に日本の地位を主張することは出来ない。ならば”総力そのものを上げよう“と考える。満州、である。それでも日本に勝つ能力が備わるには時間がかかるだろう。“1966年”までには、という想定だった。小畑は“相手を選び”、石原は“時期を選ぶ”というのが本音だった。
しかしこうした本音はやがて時代の奔流のなかで忘れ去られ、表向きの“大切なのは精神力”という、建前だけが暴走し始める。“皇国日本は実は勝てない国なのだ”という本音をもはやだれも口に出来ない状況のまま対米戦に突入するに至って、中柴末純は“玉砕によって敵の戦意を殺ぐ。そうすれば少しでも有利な講和条件が整うかもしれない。玉砕はやけっぱちではない、作戦だ”と主張した。
著者によれば、三者とも、(その経歴から見ても)実は現実主義者だっただろうという。ひとつひとつの局面において充分に賢明で合理的なものの見方をする能力がある人間が、大局的には大きく道をあやまるというのが、実際、起こった事なのだ。“精神主義に染まった愚かな者たちだったから間違った”というより“現実主義だったからこそ退路を失った”というほうが、ある意味怖い。“無責任だから間違った”というより“なまじ責任と自負を感じたから引き返せなかった”というほうが、怖い。過ちを繰り返さないために覚えておかなくてはならない視点だと思う。
さて、こうした「総力戦思想の行き詰まり」の背景になにがあったのか。それこそが「明治憲法の桎梏」だと著者はいう。
登場するのは明治期を代表する法制官僚・井上毅である。井上による明治憲法草案の第一条は「日本帝国は万世一系の天皇のしらすところなり」だった。この“しらす”という古語を漢語的表現の“統治”にかえて「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」という条文になった。では“しらす”とはどういう意味を含んでいるのか、井上の解釈が紹介されている。
「しらす」は知らすである。上に立つ者がおのれを鏡として、下の者たちのありのままを映し出す。(中略)上に立つ者の心はただひたすら鏡そのものでなければならない。極端に言えば自らの考えは持たない。(中略)さまざまな人の考えや行いをつとめてあるがまま認めつつ、破局を来さないように調整していく。あとは自ずとなるようになっていくしかない。(鏡には)たくさん大きく映るものがある。それがそのときの日本の空気であり雰囲気であり、一番角が立たない落しどころである。そうやって進行するのが「しらす」の政治であり、日本人が古来認めてきた国土人民をとりまとめる唯一の正しい仕方ということになるのでしょう。
著者はこの“しらす”の井上流語釈に疑問を残しながらも、法制官僚の中心で明治国家を法的にデザインし、いくつもの法律を立案した井上の影響として、「明治憲法体制全体に“しらす”の精神がゆきわたっているように思われる」「端的には権力の分散化・多元化の工夫」がみられるという。
立法・行政・司法の三権分立のその先をさらに細かく分立させる体制。貴族院と衆議院にどちらが上位ということがなく、総理大臣の権限は弱く、議会政治家が内閣を組織するという決まりもなく、内閣と対等な組織としての枢密院があり、軍は別建てで政治の介入を受けずと「これだけまめまめしく分かれていると、仮にどの組織で幾らのしあがってみても、政治家や官僚や軍人の個人の権能はたかが知れたもの」である。一方ただひとり頂点にいる天皇は“しらす”という原則をまもって鏡に徹している。「強い者が出ない。強権的リーダーシップをとらない。国を一枚岩でまとめようとしない」仕掛け、が制度的にも施されていたというのが著者の考えである。この体制では「持たざる国」として「持てる国」と国家総動員の戦争をしようというときや、逆に自制して限定的にしか戦争をしないようにしよういうときにも、国家全体の意思を強く束ねる事ができない。東条英機が総理大臣と陸軍大臣、参謀総長等々ひとりで何役も兼任したのも制度的に統合出来ないものは同じ人間がトップに立つ事で統合するしかないという苦渋の選択だったのではないか。明治憲法体制下では一元的な全体主義が完成しないしくみになっていた。日本のファシズムは未完におわる運命だったという見方は、とても興味深い。
憲法の仕組みと“しらす”の思想では誰も力を持てないかたちになっているけれど、実際にはその誰も権力を持てないしくみを作った維新の元勲・元老たちの手で政治は回されていた。が、彼ら亡き後には憲法だけ残ってあとは知らないということになってしまった。明治憲法のなかに多元性と多様性を担保しようとした仕掛けが埋め込まれていたとするなら、それは全く裏目に出たとしかいいようがない。
このような流れを強調すれば(中略)司馬遼太郎のように、明治まではよかったが日露戦争の後はビジョンも指導力もない者ばかり(というより)明治の制度設計が一番悪く、そのつけを後世が高く支払わされた。
そう考えてもいい。
実はだれも責任を持って決めない・決められないという欠陥のあった明治憲法は廃され、国民主権の日本国憲法となった。国家の意思は主権者の国民が決定するのである。井上流解釈で“しらす”存在の天皇は、“国家国民の統合の象徴”という言葉で位置づけられた。が、“多元性・多様性を静かにありのまま映し出す存在である”というその一点は、この国の歴史の流れの中に変わらずに通底するもののように思える。
あの悲惨な敗戦を経験した日本は、二度と同じ道を辿ることのないよう、あのときの痛みを忘れずに、これからも想像し続けていくことができるだろうか。主権者である国民の意思のもと、多元性・多様性を大事にし続けることができるだろうか。いや、ぜひともそうでなくてはと、つくづく思うのだ。