驚愕の一冊である。老スナイパーの名は中村泰(ひろし)。1930年生まれのこの男、岐阜刑務所に服役中。しかし、この本のタイトルになっている1995年の国松警察庁長官狙撃事件による服役ではない。その罪状で訴追され、「救国」のために狙撃したことを世に知らしめたいという中村。しかし、自らの「救国」の行動により「チェ・ゲバラ」になりたかったというその夢はかなえらてはいない。
国家によってオウム真理教の組織的犯罪と結論づけられた狙撃事件。少なくとも真犯人一味のうちの一人は中村泰である、というのがこの本の結論だ。老スナイパーの記憶が、公的な最終判断に不満を持ったのであろう関係者の資料と照らし合わされていく。披瀝される数多くの証言は、その結論が真実、あるいは真実に限りなく近いもの、であると思わせるに十分である。もし、そうでないならば、そのような偶然がおきる確率はどれだけ低いかわからない。
まず、日本にもスナイパーがいるということは衝撃であった。武器の集め方、襲撃事件における銃と弾薬の選び方、20メートル以上の距離からの正確で落ち着いた射撃術、数多くの偽名と人工の指紋、偽造パスポート、銃撃に利用する自作の補助具。そして、決して仲間を裏切らないというルール。東大中退で頭脳も明晰という中村は、まるでゴルゴ13だ。
しかし、いくつかの点でゴルゴとは違う。まず、誰かとの契約でその腕を使ったのではないということ。そして、二度の長期服役。一度目の射殺事件-金庫破りをしようとしていたところを職質した警察官を冷酷に射殺した1956年の犯罪-で無期懲役の刑をうけ、二十年間服役。その後、三十年近くを経た2002年、老後の資金が不安になって挙行した銀行襲撃事件で現在も服役。その三十年ほどの空白の期間に「特別義勇隊」の特殊工作員として働き、米国で武器を買い集め、日本へ密輸、そして、国松長官を狙撃。
中村の正式な調書があるにも関わらず、オウムの事件として幕引きがはかられたままであることも驚きだ。個人や組織のメンツがその理由なのかどうかはわからない。しかし、どのよう理由であれ、かなりの証拠を持って、自ら罪を犯したと名乗り出た者のことが、まともに取り上げられないというのは、法治国家として、えん罪と同じくらいあってはならないことではないだろうか。歴とした犯罪なのである。
これだけの内容を持った面白い本が、単行本の発刊時から、そう大きくはとりあげられてこなかったのは不思議である。ひょっとしたら、どこかで「自主規制」がはたらいているのかと勘ぐったりもする。狙撃事件の関係者として罪状を押しつけられていた平田信が自首した今、新たな章を付け加えてのタイムリーな文庫化である。この本が広く読まれることにより、日本の警察・検察システムが少しでもよくなれば、老スナイパーの夢が少しはかなえられたことになるのだろうか。