2012年5月27日レスリング女子ワールドカップ国別対抗戦決勝、ロシア相手に初戦から4連勝した日本は、絶対王者吉田沙保里の登場を前に6年ぶり6度目の優勝を決めていた。優勝を手中に収めた気の緩みがあったのだろうか、はたまたオリンピックを目前に控えたこの時期コンディションが谷底を迎えていたのだろうか。4年以上ただの一度も負けることなく、連勝を58にまで伸ばした最強王者は若さ漲る19歳ワレリア・ジョロボワの猛攻の前に僅差の判定で敗れた。試合後吉田は、溢れ出る涙を抑えることができなかった。
消化試合だった、あくまで本番は五輪だ、コンディションが悪かった。言い訳はいくらでもできたかもしれない。それでも吉田は「勇気がなかった」と泣き続けた。58連勝の前、つまり、4年前のワールドカップでの敗北の前、吉田は119連勝を記録しており、その生涯勝率は優に9割を超える。ある意味、数え切れない勝利の中のたった一度の負けである。しかも、団体戦の結果に今回の負けは何ら影響を与えるものではない。それでも、吉田は泣き続けた。吉田にとって“敗北”が意味するものは、“勝利”にかける思いは、我々の想像を超えるところにある。
野球の打者であれば3割打てば名選手であり、ペナントレースで優勝するチームも1年間に40回以上は負けるだろう。しかし、格闘技ではたった一度の勝負が全てである。勝者が全てを手に入れ、敗者には何も与えられない。格闘技の醍醐味の1つがここにある。どんな事情があれ、どんなコンディションであれ、どんな名王者であれ、そのとき、その試合の結果が全てなのだ。たった一度の勝利で無名の噛ませ犬が英雄になれる。たった一度の敗北で最強の称号と、その名声に群がっていた人々は手の届かない彼方へと逃げていく。蜃気楼のように儚い“最強”を追い求める姿は、何とも過酷で、美しい。
日本に敗れ、団体戦2位に終わったロシア代表監督ユーリ・シャクムラドフは試合後、「日本と闘えるという手ごたえはつかんだ。」「もう日本は怖い存在ではない。」というコメントを出している。つまり、日本女子レスリングは世界から恐れられ、追いかけられる程の存在だと言うことだ。過去二度のオリンピックの結果を見ればその強さがどれほど際立ったものかがよく分かる。7階級で争われるワールドカップ、世界選手権とは異なり、4階級で争われる女子レスリングが五輪種目に採用されたのは2004年のアテネから。つまり、金・銀・銅のメダルを持つ女子レスリング選手は、まだ歴史上それぞれ8名ずつしかいないということだ。そんな中、日本が持つメダルはそれぞれ4個・2個・2個である。全ての階級でメダルを逃したことがないというのは驚異と言うしかない。
なぜ日本の女子レスリングはこれ程の強さを誇っているのか。体重制とは言え筋力に劣ると言われる日本人が、女子において最強と恐れられ、男子においても五輪でメダルを取り続けるまでに至ったのには理由がある。日本発ではないこの競技で、日本人の手によるレスリングの技術手引書『Scientific Approach to Wrestling』が世界中のレスラーのバイブルとなるまでには、人生の全てをレスリングに捧げた男の努力があった。柔道、剣道、空手など、既に多くの競技人口を誇る競技を持つこの武道大国で、レスリングがここまで普及した裏側には、ただひたすらに強さを追い求める人々の物語があった。
この壮大な物語は大正時代の靖国神社から始まる。
1921年3月靖国神社で行われたプロレスラーのアド・サンテルと早稲田大学柔道部の庄司彦雄の異種格闘技戦には1万人近い観客が詰め掛けたのだが、この試合が開催されるまでには紆余曲折があった。サンテルは海外で多くの日本人柔道家を破り「世界ジュードー・チャンピオン」を名乗っており、更なる強者を求めて来日した。しかし、他流試合を禁止していた講道館が、創始者嘉納治五郎の名前で直々に「サンテルと戦った者は破門する」と通達を出したため、対戦相手がなかなか決まらなかったのだ(講道館自身は他流試合で名を上げたにも関わらず、である)。黒船に立ち向かう勇気ある柔道家を求める声が高まる中、庄司が破門覚悟で手を挙げたのは、彼の目標が最強ではなく、政治家となることだったからだ。現在ではリアルファイトであったことが疑わしいとされるこの試合は引き分けで終わる。この庄司が日本レスリングの起点となり、物語が動き始める。
大学卒業後米国へ留学した庄司は、彼の地でプロレスのリングにも上がり、エンターテインメント興業のあり方を実際の体験として学び、日本レスリング普及のヒントを得る。そう、意外なことに日本レスリングの源流はプロレスにあるのだ(海外でもグレコ・ローマンレスリングの人気はプロ興業をきっかけとしている)。米国から帰国後、庄司は早大レスリング部を創設し、自らコーチに就任する。このとき主将に選ばれた講道館四段の八田一朗こそが、日本レスリングを創り上げた男である。
とにかく、この八田と言う男の行動はぶれることがない。強いレスラーを生み出すためなら、日本にレスリングを普及させるためなら、文字通り何でもやる。土下座だろうが、恫喝だろうが、私財を投げ打とうが、相手が皇族だろうが、この男には関係ない。強い日本レスリングの実現こそがこの男の至上命題であり、他のどんなものもその実現のための手段に過ぎない。当然、この物語はこの男を中心として進んでいくこととなる。
八田はレスリング部創設後まもなく、シベリア鉄道でヨーロッパへレスリングを学びに向かった。日本にトップレベルのレスリングを知る者はいないので、外国から輸入するしかなかったのだが、当時の日本人にとって“洋行”は上流階級にのみに許された特権であった。そのため、黎明期のレスリングは父が海軍の機関大佐を退役した後、コロムビアレコード重役となっていた八田のような裕福な家庭のお坊ちゃんたちに支えられることとなる。
八田を得てようやくスタートラインに立った日本レスリングを語るには、柔道の存在を忘れることはできない。当時、強さを追い求める男たちが向かう先と言えば柔道であり、一刻も早い外国へのキャッチアップを目指すには、柔道界にその人材を頼るより他に方法はなかったのだ。しかし、柔道界のレスリングを見る目は厳しいものであり、講道館の広報誌では「技術の内容の広さと深さ共に到底比すべくもない」とまでこき下ろしている。それにも関わらず、日本初のIOC委員である嘉納治五郎率いる講道館はオリンピック種目であるレスリングを自らの管理下に置こうと企てる。柔道家が本気を出せば簡単にメダルを取れると考えていたのだ。柔道とレスリングの違い、何より日本と海外の実力差をその肌で知る八田は怒りに震えながら覚悟を決めた。
日本のレスリングの未来をはっきりと見通しているのは自分ひとりだ
柔道の高段者ばかりを派遣したロス五輪が惨敗に終わると、講道館はあっさりレスリングから手を引くこととなり、八田の覚悟は確信へと変わる。八田の確信に沿うように日本レスリングは成長を続け、1936年に行われたベルリンオリンピックでは入賞者を出すまでに上り詰めた。日本レスリングの未来は明るい、誰もがそう思っていた。しかし、押し寄せる戦争のうねりの前ではいかに八田でも打つ手はなく、敵性競技に指定された日本レスリングはその歩みを一旦止めざるを得なかった。裕福だった八田も、戦争でその全てを失うこととなる。ところが終戦後、レスリングの神様は再び日本の方を向く。GHQが学校内で柔剣道を教えることを禁止し、多くの柔道経験者がレスリングに転向したのだ。この転向の背景にはレスリングが体重制だったことも影響している(当時の柔道は無差別のみ)。
八田がこの追い風にただ身を任せておくだけで満足するわけはない。戦争で財産は失っていたが、レスリングのために使えるものは何でも使った。先ずは戦争中に結婚した妻のコネクションを使い、三笠宮様にレスリングを国体正式種目に採用するよう直談判した。当時の国体が与える影響は現在の比ではない。果たして八田の執念は実を結び、第三回福岡国体で正式種目入りし、昭和29年には三笠宮杯としてインターハイ種目となる。また、他の競技に先駆けて日本レスリング協会の国際組織への復帰が認められたのも、八田の多岐に渡る人脈による影響が大きい。
あらゆる業界の要人とコネクションを築いていく八田だが、それはあくまでレスリング強化の手段にすぎない。1950年には正式にアマチュアレスリング協会会長に就任するのだが、その経緯が何とも八田らしい。レスリング協会理事だった八田はそもそも会長職になど全く興味を示していなかった。会長職などは名誉を欲しがる金持ちにくれてやり、その資金を強化策に使おうと計画していたほどだ。八田にとって役職は何も意味しない。彼の興味はあくまで日本レスリングの強化なのだ。そんな八田が会長職を引き受けることを決めたのは、会長職でなければ天皇陛下と各競技団体の食事の場に参加できないと分かったからだ。このときもただ天皇陛下にお会いしたかったというより、その場で何か直談判しようと企んでいたのだろう。
八田のあの手この手を尽くした努力の甲斐もあり、日本レスリングの地盤は着実に固く、広くなっていく。早稲田、明治、慶応に遅れて創設された中央大学レスリングに1人の男が入部することで、八田が耕し、種をまき続けた日本レスリングが最初の成功の果実を手にすることとなる。この男こそ、戦時中は特攻隊となり、敵空母に体当たりして玉砕することを覚悟していた石井庄八である。石井は、ぶつけるあてのなくなった身体を、気持ちを、ぶつけられる対象を探していたのではないか。「天下とらねばただの人」を口癖に驚異的なトレーニングを重ねた石井は、たった1年で全日本選手権を手中に収め、1952年ヘルシンキ五輪で戦後初の金メダルを取る。石井は敗戦のショックから立ち直り始めた国民の英雄となった。
とにかく自らの信念をかけ、全存在をレスリングに捧げる八田である。ときにはそのやり方が強引なものと映り、八田の存在を疎ましく思う者も当然いた。レスリング協会の中でも反八田派による造反組が結成され、ヘルシンキ五輪から1年後の1953年には八田への不信任案が提出されるに至る。このピンチを救ったのは意外にも、ヘルシンキ五輪直前に八田によって監督を解任された戦前の名レスラー風間栄一である。風間もまた私利私欲、私怨を超えて、日本レスリングに本当に必要なものが何かをよく理解していた。
八田も完全ではない。だが、八田を辞めさせて代わりになる者が他にいるか?一流を追い出して二流を連れてくることはないだろう
自らの首を切った相手に対して、このセリフを言える人間がどれ程いるだろうか。
半世紀前の国際団体運営は現代では想像のつかないような苦労が付きまとう。例えば、1954年に初の日本開催が決まった世界選手権を前にして、八田は外務省へ通いつめるハメになる。当時日本はソ連との国交がなく、捕虜送還などの問題も山積み。そのため、共産主義国の選手の入国が認められていなかったのだ。最強国ソ連はヘルシンキでも6個の金メダルを取っており、ソ連なしでは最強を決める場そのものが成立しない。八田が対処すべき困難はこれだけではない。何と会場となるべき東京体育館の完成が間に合いそうにないのだ。更には、諦めの悪い造反組からの妨害工作まで襲ってくる始末。尽きることなくやってくる困難にも、八田の辞書には諦めるという言葉はない。最後まで奔走して成功を目指す姿、造反組みにも頭を下げる姿に、本当の強さとはこういうものではないかと胸が熱くなる。
八田を語るうえで欠かすことのできないのが剃毛だ。八田はふがいない試合をした人間には誰でも容赦なく剃毛を強要した。この剃毛には根性論・精神論の面もあるだろうが、どうやらマスコミ向けのアピールとしての意味合いを強く意識していたようだ。そう、八田はそのずば抜けた嗅覚で、当時のスポーツ関係者としては異例な程にメディア・情報戦略の重要性を理解し、巧みに利用している。知名度の低いレスリングの普及にはマーケッターとしての素養も重要だったということか。選手の根性を鍛えるために、突然選手と上野動物園にライオンとの“にらめっこ特訓”に出かけたかと思えば、特訓現場にはしっかり新聞記者が待機している。合宿中に鬼のように選手を管理して(下半身事情もきっちり記録して報告することが義務付けられていた)追い込んだかと思えば、五輪前にサプライズで日本人初の金メダリスト織田幹雄を連れてきて選手のモチベーション向上を狙う。とにかく、人の気を惹くことに長けている。
八田の先見性を示す事例は他にもある。惨敗で終わったローマ五輪の後に控えていたのは、絶対に負けられない東京五輪。大幅な改革が必要とされていた日本に八田が打った手は、外国人コーチの招聘である。現在でこそ珍しくない外国人コーチの招聘だが、当時においては前代未聞。何しろ、日本スポーツ史上初のナショナルチーム外国人コーチなのである。ぶれない明確な目標が八田にこのような先見性をもたらしたのではないだろうか。何としても成し遂げたい目標があったからこそ、当時の常識や習慣にとらわれることなく、自由な発想であの手この手が打てたのだ。どんな時でも判断基準はただ一つ、日本レスリングが強くなるかどうかだけである。
八田の話ばかりになってしまったが、本書は日本を飛び越えたレスリング源流の探求も行われている盛り沢山の内容だ。何より、八田以外にも数多く登場する実に魅力的なレスラーたちが本書の見所だろう。優秀な頭脳で徹底的にレスリングを分析した笹原正三、モントリオール五輪で金メダルを取りながらもモスクワ五輪回避で全盛期に輝ききれなかった天才高田裕司、日本女子レスリングを世界最強にまで導いた福田富昭、世界に誇るべき規模にまで成長した少年レスリングの基礎を築いた木口宣昭。レスラーたちの名前をあげるだけでもきりがないが、それぞれに語りたくなるエピソードが付いてくる。既にとんでもなく長いレビューになってしまったので、その全てを紹介することができないのが残念である。
100年に及ぶ日本レスリングの物語には、その中心に人生の全てを強さの追求に捧げた八田一郎がいた。しかし、八田は決して一人で闘ってきたわけではない。共に闘う者、後に続く者、皆がただひたすらに強さを追いかけた。先駆者たちが必死の思いで外国から持ち込んだレスリングは武道の国で独自の発展を遂げ、その発祥の地に新たなレスリングのあり方を示そうとする程にまで成長した。これからも日本レスリングは強さを追い求める者を惹き付け続けるだろう。強さの探求に終わりはない。
物語はまだ始まったばかりだ。
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もはや説明不要の第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。“最強”と聞いてこの男を思い浮かべない人はいない。著者の思いが、木村の執念が文面から滲み出てくる。レビューはこちら。
強さを追い求めるレスラーたちの姿に熱くなる『日本レスリングの物語』とは対照的に、この本には不思議なほどに強さを求める男たちが登場しない。日本で最も有名な格闘家の一人であり、『空手バカ一代』のモデルでもある大山培達が作り上げた公称1200万人の門徒を持つ極真空手は総裁の死後、混乱の道へ突き進むことになる。その分裂の舞台裏が赤裸々に描かれている本書は、読み進めていくほどに苦しくなる。
“強くなりたい”と集まったはずの男たちの目的は、いつの間に違うものにとって代わられたのだろう。カリスマ創業社長のもとに大きくなった企業が代替わりで分裂していく話は他にも多くある。組織というのはそういうものなのかもしれない。しかし、“強い男”に強烈な憧れを持つ私は、格闘家だけには違った姿を見せてほしかった。いつまでも強さを追い求めて欲しかった。そんな期待がいかに現実とは異なる、甘ったれた希望であるかを本書は突きつけてくる。
いっそのこと、最も強い選手を育てた男を館長にするぐらいのことをしても良かったのではないかとさえ思える。これだけの大きな組織がそんな単純な論理で動いてはいけないことは理解できるが、組織の論理で最強に挑戦できない選手が生まれる状況はどうにも耐え難い。
強さとは何か。強いはずの男たちの迷走を見ていると、この疑問が頭から離れなくなる。