レンズもないのに、小さな穴を通った景色は、あわい色合いでほんのりと確実に像を結ぶ。でも、じっとしているものしか写せない。ピンホールカメラをはじめて知った時、不思議でたまりませんでした。この本は、中華料理、という、京都にとっては小さな針穴、そして、おそらくこれまでは誰も気にしなかった針穴、を上手に使って、優しくそして静謐に京都を描き出した本なのです。
とりあげられているのは、<餃子>、<鶏>、<海老>、<肉>、<飯>、<麺> の六つにカテゴリー分けされた16のお店。しかし、そのラインアップに客観的な脈略はまったくありません。それもそのはず。京都生まれの著者・姜尚美(かん・さんみ)さんが、“自分の街に縁あって生まれた味を知ろうとしたり、喜ぶ” ために選んだ “京都でしか成り立たない味” を持つ中華料理のお店が、ただ並べられているだけなのですから。そんな本が面白いのかって?私もどうかなぁと思いながら読み始めたのですが、結局、こうしてHONZに紹介したくなってしまったのです。
グルメガイドと思って読むと、ちょっとがっかりするでしょう。それぞれの店でのお気に入り、1~2品の料理について書かれているだけですから。でも、その写真は、どれもとても美味しそうです。順々に、その味について、その由来について、愛情あふれる文章でやさしく紹介されていきます。しかし、値段は書かれていません。料理の値打ちは何によって決まるのか、どうとらえるべきか。をそっと教えてくれているようです。
“おいしい、確かに。でも、伝わるかなあ、あの静かな味-”と遠慮しながら料理を語る姜さんの言葉は、
“ かやくごはんみたいな焼飯(やきめし)の味のまるさ <飯> 盛京亭“
“ 「からし鶏(どり)」は静かに辛い <鶏> 鳳飛 ”
“ 新しい味のかくし味はいつも、古い味 <餃子> 盛華亭 ”
という感じです。まるい味、静かに辛い味、新しい味・古い味って、どんな味でしょう。でも、なんとなくどれも京都らしくって、食べたくなってきませんか。
料理の写真だけではありません。店構え、周りで食べている人、それから、その料理を作った人の写真もたくさん載っています。そうですよね。食べるという行為は、料理だけで決まるものではないですものね。
“ やさしい衣に包まれているのは、大えびだけではないようだ <海老> ぎをん森幸”
“ 「ひと目でその人が作ったとわかる何か」、それを意匠と呼ぶならば、[糸仙]のすぶたには意匠がある <肉> 糸仙 ”
料理を作る人を見ながら食べるわけではないけれど、美味しい料理を食べた時、この料理はどんな人が作っているのかは、たしかに知りたくなりますね。
そして、すばらしくいい顔をした料理人さんたちが、すばらしい言葉を語っておられます。
“ みなさん、店に来るというより、家に帰ってくるみたいな顔して来られますね <鶏> 八楽”
“ 京都的な味とは対極の味やったから、変えやすかった部分もあると思うんです <飯> 盛京亭”
“ その街に合わさんと。京都は、加えるんやなくて抜かんといかん <餃子> 草魚 ”
ホスピタリティーを大事にして上手に変わる。それも、加えるよりも削っていくことによって。勝手に選ばれし『京都の中華』のお店には、期せずしてこういう共通点があるようです。
これらの言葉は、京都という町が暗喩するもの、そのもののような気がします。『京都の中華』という、いってみれば、京都にとって、辺境のような際物のようなテーマからでさえ、京都らしさがぼんやりと立ち上がってくるというのは驚きです。しかし、それこそが京都の懐の広さ、底力なのでしょう。
どのお店も行ってみたくなるけれど、そのためにわざわざ京都へ出向いたりするのは、流儀にそむくような気がします。でも、京都へ行く用事があれば、ちょっと回り道して寄ってみるのは許してもらえるかな、と、なんとももどかしい気持ちを抱かせる罪深い本です。この本、グルメ本や旅行本の棚でなく、エッセイの棚で手にとって、ファンタジーのように読みすすめる、というのが正しい読み方なのかもしれません。
“あなたの住む街にも、「そこにしかない中華」「そこにしかない味」がきっとある。「京都の中華」が、あなたの街が育てたかけがえのない味に気づく、ひとつのきっかけになってくれればいいなと思う。”
と言われても、どうも京都のようにいく街は多くはなさそうです。しかし、サヴァランではありませんが、食べてきたものによって、どのような人であるかは、ある程度わかるかような気がします。いちど、あなたも、自分の街にある自分の好みの味のお店というピンホールから、自分というものを見つめ直してみてはどうでしょう。
あんこだけでここまで書けるか… 姜尚美の「甘い」デビュー作。
京都は錦市場の漬け物屋主人・バッキー井上による、京都の飲み屋論。京都で中華を食べた後はバーですな。
大阪ではちょっとぶいぶい言わせてる「岸和田だんじりエディター」江弘樹による、うまいもんを食わせる店を通して見た大阪論。
食の文化人類学者、石毛直道氏の本。こういうタイプの「学者」って減ってきてるような気がするなぁ。