著者のポール・ミドラーはペンシルベニア大学のウォートンスクール出身のMBA保有者で中国広州在住のコンサルタントである。世界の工場と呼ばれるまでになった中国のものづくり現場の実態を赤裸々にあぶりだした本書は出版されるや否や大きな反響を呼び、英国 Economist誌の2009年度Book of the Yearに『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』等と並んで選ばれている。2009年のEconomics and Business部門は金融危機ネタばかりなので、ある意味異例の選出かもしれない。当然アジアでも本書への注目度は高く、既に台湾、マレーシア、インドネシアで翻訳出版されている。当地中国で出版されていない理由は、まぁ、いろいろあるようだ。
という風に紹介するとお堅いビジネス本かと思われるかもしれないが、全くそんなことはない。本書は著者の体験をベースに話が展開され、欧米の製造元(輸入業者)と中国の工場の間に入って振り回される著者、あの手この手で利益を搾り出そうとする工場経営者、そんな工場に振り回されて顔を真っ赤にする輸入業者の姿がいきいきと描き出されている。そのやり取りがとにかく面白いので、潜入ルポ系ノンフィクションとして中国ビジネスと関わりのない人も楽しめるだろう。「中国ビジネスと関わりのない人」とは言っても、誰もが何かしらのMade in Chinaを購入しているはずなので、もはや全く関わりのない人などいないのかもしれない。
強烈なエピソード満載の中国でのものづくりだが、製造・輸出を始めるのは何も難しいことではないと著者は言う。労働力単価だけ見ればもっと安い国は他にもあるのに、それでも中国に人が押し寄せるのにはそれなりの理由があるのだ。ビジネスをするための特別な許可や証明書は必要なく、観光ビザで入国できるし、滞在延長だって簡単だ。露骨な詐欺は少なく、南米のように誘拐のような犯罪に怯える必要もない。何より製造業者側が王様のように熱烈に輸入業者を歓迎してくれるのだから堪らない。工場側から提出された見積もりを見た輸入業者は同じような台詞で驚くそうだ。
どうしてこんなに安く製造できるんだ!?
そう、ビジネスを“始める”ことは難しくない。困難が待ち受けているのはビジネスを始めた後なのだから。
本書の中心はヘルス&ビューティーケア製品の輸入業者であるジョンソン・カーター社と製造工場である帝王化成の、一癖も二癖もある成長物語だ(社名はどちらも仮名だがあくまで現実の話である)。ものづくり、品質に対する考え方から、その裏にある国民性、文化の違いが透けて見えるのも本書の魅力の一つである。例えば、シャンプーボトルの口に素手の指を突っ込んで運んでいる作業員を発見した著者が衛生面を気にして注意すると、経営者である陳姉はあっさりこう言い放つ。
あなたが工場にいるときには、ボトルの口に指を入れないようにと作業員たちに伝えます
いやいやいや、そういうことじゃなくてね。。。
前提条件が徹底的に異なる2人の掛け合いはまるで漫才を見ているようで、つい吹き出してしまう。本書を読んでいる間に何度も、「ちょっと、何言ってるか分かんない」とつぶやくことになるはずだ。
なぜこんなにも考え方が異なるのか。本書でも様々な仮説が提示されているが、1つには製造者が何を製造しているかを全く理解していないということが挙げられる。帝王化成の作業員はそもそもリキッド状のソープを購入したこともなければ使ったこともないのだ。彼らはこの製品を贅沢品と考えているため、ポンプに不具合があったとしても、フタを取って使えば何も問題ないじゃないかと考える。エレベーターの使用方法で四苦八苦する作業員もおり、自らの日常がいかに多くの暗黙の了解の上に成り立っているかを思い知らされる。
「ただより高いものはない」「There is no free lunch」洋の東西を問わず、このような慣用句があるんだから、やっぱりうま過ぎる話には気をつけなくてはならない。「どうしてこんなに安く製造できるんだ!?」と驚いた後には、もっと大きな驚きが待っている。きっちりと指定したラベルの大きさはいつの間にか小さくなるし、チェリーの香りはアーモンドの香りに変わっている。極めつけは、フィートあたり1.9人民元で合意したはずなのに請求書は1.99人民元になっている。問い詰めれば返ってくる答えはいつも同じ。
「差不多」―ほとんど同じですよ
契約を勝ち取ればこちらのものとばかりに、ゲームを楽しむように、次々と原価低減のための手抜き、ズルを仕掛けてくる。契約を勝ち取ってからが彼らの腕の見せ所なのだ。拡大を続ける中国国内市場が、受け取り拒否された製品の出口として機能していることも、彼らのこのような姿勢に拍車をかけていると著者は指摘する。
そんなにひどいサプライヤーならさっさと他の工場に切り替えればいいじゃないか、と思うだろう。度重なる値上げを要求する帝王化成との交渉が行き詰ったジョン・カーター社は著者に別の工場のリストアップを命じるのだが、これは悪手であった。著者が訪ねた最初の候補工場の経営者は陳姉と友人だったのだ。その後の候補工場にも同様のネットワークが張り巡らされており、こちらの行動は帝王化成に筒抜けである。他のサプライヤーを探していること、そしてそれが失敗に終わったことが分かると、帝王化成は更に強硬な姿勢で交渉に臨んできた。このように緊密に張り巡らされた工場間のネットワークが、製造のスピードを担保している反面、輸入業者にとっては脅威ともなっている。
当然、このような無茶な値上げを要求するのは、輸入業者が小売業者から巨大な受注を獲得したタイミングなので、輸入業者は納期までに絶対に大量の商品が必要なのだ。
本書の最終章にはちょっとしたクイズが用意されている。
あなたが出張で夜遅くに広州空港に到着したところを想像して欲しい。タクシーの運転手はホテルまで20ドルだと言ってきた。これは手頃な値段だ。空港を出てしばらくした暗がりで運転手は急に車を停めて、こう言ってきた。
20ドルではホテルまで連れていけない、30ドルならすごく嬉しいんだけど
ここで次の3つの選択肢からあなたはどの行動を選ぶだろうか。
- 追加料金を払って計30ドルでホテルまでタクシーで行く。
- タクシーを降りて別のクルマを探す。
- 追加料金を承諾するが、目的地に着いたら、自分は非倫理的行為をしただけだと説明して本来の料金20ドルだけを支払う。
それぞれを選んだときにどのようなことが起こり得るかは本書で確認して欲しい。そもそもこんな状況に巻き込まれるような所に行きたくないと思う人は、中国の工場とビジネスをしようとは思わないほうが良いだろう。いやいや選択肢は他にもあるだろうと、DやEの選択肢が浮かんでくる人は、中国へ乗り込んで陳姉と丁々発止の交渉を繰り広げていかがだろうか。
日本人には理解しがたい中国人の行動原理を分かりやすく解説した一冊。有形の財物に関わる漢字(例えば、財、賭、賞、貢)に「貝」が含まれている理由、無形の善行や儀礼に関わる漢字(例えば、義、美、善)に「羊」が含まれる理由ををはじめ、へぇーなトリビアも満載。。
こちらはものづくりでなく経済、しかも地下経済を扱った一冊。うまい話に裏を承知で飛びつく人たちの行動に驚かされる。
中国と日本が異なるように、タイもまた異なる。ものづくりから見た文化史シリーズにはついつい惹かれてしまう。山本尚樹によるレビューはこちら