- 作者: 下田淳
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/08/18
私は酒癖があまりよくない。正直に言うと、むしろ悪い。知人曰く「絶滅危惧種の昭和時代の酔っぱらい」的醜態をあちこちでさらしているからか、飲む度に知人が減っている気がする。さすがに懲りて、最近、節酒を始めたが、飲まなければ飲まないで意外に平気な自分がいる。もしかしたら酒を好きでないのかとすら思い始めた。ただ、飲まなくて平気でも妙に居酒屋が恋しい。飲まなくても酒場に行きたい気持ちだけはなかなか抑えられない。ここまで人々(私だけかもしれないが)を惹きつける居酒屋とは何なのだろうか。
本書によれば、居酒屋の歴史は古い。ハムラビ法典には紀元前18世紀にバビロニアに居酒屋が存在したという記述があるという。紀元前7世紀に貨幣が誕生して以降、欧州で徐々に増えていった。当時、上流階級は居酒屋には行かず、家で飲んでいたが、皇帝などがお忍びで訪れることもあったという。本格的に普及するのは12世紀以降。教会や修道院の醸造所から発展したケースと女性が自宅でビールを造っていたケースの2種類があったという。
欧州では16世紀前後に居酒屋が最盛期を迎える。居酒屋の数が爆発的に増えた。それまで都市部に限られていた居酒屋が農村部に見え始めたのもこの時期だ。背景には貨幣経済の発達に加え、宗教改革が起こり、教会で酒を飲むことが禁じられたことがある。教会の持っていた多機能性の内、俗物的機能が居酒屋として、分離していき、居酒屋が教会に変わり、人々の生活に必要な機能を持ち合わせるようになった。少し大げさかもしれないが、当時の居酒屋は生活を豊かにするのに不可欠な場所だった。時代や地域により、若干の差異はあるが、欧州では銀行や裁判所、集会所、結婚披露宴、賭博、演芸、そして売春の機能を持った(日本やイスラム圏でも、欧州ほどの多機能性はないが社交の場であったことは間違いない)。
本書の全体の構成は10章からなり、最初の6章が通史。著者はドイツ史を専門とするだけに、欧州の居酒屋について多くを割いている。欧州について論じた1-3章で本書全体の約半分を占める。日本や中国など非ヨーロッパ地域もヨーロッパとの対比でかかれている。7―10章はテーマ編だ。
個人的な興味は3章の居酒屋の衰退期。工業化の進展で居酒屋がかつてほど人々の中心ではなくなったという内容だ。たとえば、低温殺菌法の発明は、ビールやワインの保存を可能にした。その結果、居酒屋に毎日行かなくても家で酒を飲めるようになりライフスタイルに変化をもたらした。技術の進展は禁酒運動の隆盛という思わぬ動きにもにつながった。18世紀末から19世紀前半に、蒸留酒の大量生産が可能になったことで、欧米の労働者の間でアルコール依存症が問題になったからだ。(特にアメリカで活発になったわけだが、これはプロテスタント系の禁欲主義によるものとの説明が従来は多かったが、最近の研究では単に労働者の労働効率を上げるためとの説が支配的だ)。
結局、アメリカでは1920年に禁酒法が発効されるまでに至るが、ギヤングの酒の密造が広く知られるように失敗に終わる。欧州諸国も酒量を抑制する動きは起きたが、伝統酒をつくりつづけてきた土壌があるからか、禁酒にまではたどりつかなかった。
面白いのは禁酒法時代のアメリカで様々な余暇が生まれたことだ。酒を飲む場がないから他の所に行くしかないからだ。野球観戦や映画館がこの時、成立していった。また博物館や図書館、公園、運動場も多くできたという。イギリスでも旅行業の創業者として知られるトマス・クックが19世紀半ばに鉄道を使った旅行を居酒屋に変わる娯楽として提唱した。19世紀末にはマクレッガーが「フットボール連盟」を設立し、土曜の午後にサッカーの試合が開催されるようになった。禁酒運動時代の前に居酒屋に集中していた「楽しみ」が細分化され、人々が居酒屋から遠ざかっていった。現代は、この拡散はさらに加速しているのは間違いないだろう。その現代において、「居酒屋に行きたい、居酒屋に行きたい」と念仏のようにつぶやく私は楽しみを知らない人間なのかと愕然としてしまうのだが(さっさと行けよって話だが)。
最近は、文献の参照が適当な新書も少なくないが、本書の巻末の参考文献は12ページにも及ぶ。著者は「多様な文献を『つまみ食い』ならぬ『つまみ飲み』してできあがった」としており、若干雑多な印象を人によっては受けるかもしれないが、逆に、読み手も好きなところだけ「つまみ飲み」できる手軽さがある。大変失礼かもしれないが、まさに酒のつまみにもなる本ではないだろうか。