僕は「歴史オタク」を自認しているけれど、インダス文明については、「文字が未解読である」「広域文明だった」「王墓がない」ぐらいのイメージしか、すぐには思い浮かばない。確かに、4大文明の中で、インダス文明は最も言及されることが少ない文明だ。それには、文字が未解読であることが大きいと考える。畢竟、歴史とは文字で書かれたものであるからだ。
本書は多くのインダス遺跡を実査した著者による、最新のインダス文明の概説書である。第1章「インダス文明とはなにか」が、概要であり、第2章から第6章までは、パキスタンとインドに跨るインダス遺跡の、いわば訪問記録である(全ての遺跡を著者が実査した訳ではないが)。そして、第7章「新しいインダス文明像を求めて」が、全体のまとめとなっている。本書を一読すれば、最新のインダス文明を巡る学会の地平や、インダス文明の現時点における全体像をコンパクトに理解することができる。インダス文明期の冬作物と夏作物の分布や、インダス文明期における鉱物流通ルートなど、面白い分析も随所にみられる。これらを読めば、歴史は文科系ではなく、理科系の学問だということが納得できるだろう。
文字が未解読であることに加え、インダス文明の全貌が、今一つ、詳らかでないのは、遺跡の発掘が進んでいないからでもある。加えて、インドとパキスタンの争いや、とりわけ9.11以降のパキスタンの政情の不安定が、それに拍車をかけている。南アジアの政治・外交の安定こそが、インダス文明の謎を解く最大の鍵であることを、本書を読んで改めて思い知らされた。
著者は、インダス文明は「大河文明ではなかった」という点に、かなりの力点を置いているように見受けられる。しかし、大河文明か否かが、インダス文明をめぐるそれほど大きな歴史上の論点になるのか、というそもそもの問題については、いろいろな立場があり得よう。なお、大河文明を、著者は、独自に次のように定義している。
1. 大河に依存している
2. 農業が大河に依拠している
3. 中央集権的政治システムの存在
むしろ、インダス文明については、「なぜ王権が確立しなかったのか」「(それにも係らず)なぜ広域に拡がったのか」という問いのほうが、遥かに重要な論点ではないだろうか。
ともあれ、本書を読んだ後でも、インダス文明は依然として厚いベールに覆われたままだ。著者が「おわりに」で述べているように、「インダス文明の未来を切り開くことができるのは、インダス文明研究をこころざす君の両肩にかかっている」。「若い研究者の出現」を待ち望む著者の気持ちは、とてもよくわかる。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。