うつのプロともいえる、現在60代の女性が都内23軒の精神科を尋ねたルポだ。著者は大学の演劇科を卒業した20代から今日までアングラ女優。新宿ゴールデン街でバーを経営している。40代に大学の心理学科を卒業し、精神保健福祉士の資格も取得して、精神科クリニックに長く勤務していた経験もある。2回の離婚で幼児期と思春期に辛い思いをさせた娘さんへの悔恨もあり、若いころには重度のうつ病に罹ったこともある。そして60代になり、うつが再発したことから都内23区の精神科を巡る旅を始めたのだ。
おそらく世界初の精神科ルポルタージュだ。それも医師を偽ることなく本物の初診患者が精神科を回るのだ。当然本人はうつなのだから取材は苦痛を伴うものだった。その苦労の結果、著者が会った医師たちは見事に千差万別の反応を示したのだ。
典型的なうつ病だと診断した医師 14人
非定形うつ病を診断した医師 5人
躁うつ病 1人
かくれ躁うつ病 1人
不安障害 1人
問題なし、健康と診断した医師 1人
著者は精神保健福祉士として長年の経験があるため、診断に影響を与えないよう医師への対応を大きく変えたりしていない。それでもなお、これほど大きな違いがあるのだ。処方された薬もドグマチールなど内科でも処方される軽い安定剤から、自殺の原因を作っているのではないかという悪名高いSSRIのパキシル、中毒を起こす可能性のある躁うつ病のリーマス(炭酸リチウム)まで、全部で21種類の薬が出てきた。病気治療のためなのか、患者を薬漬けにして治療に縛り付けるのが目的なのか判然としないケースもあった。
23人の医師たちのうち、うつのプロである著者が合格点を与えたのは11人だった。このガイドラインを信じる限り、現在うつで精神科に通っている人の半数は困った状態にある。初診で「脳の障害なので少し入院するのも良いを思うのですが」と言い出した医師。何も質問しないで唐突に診断を下す医師。患者を薬漬けにする悪い医師の見本のような医師。薬を飲むことを拒否しただけでお手上げになった医師。人格さえ疑いたくなる医師もいる。
いっぽうで、言うとおりにやってみようかという説得力を感じた女医。近ければ通ってもいいなと思わせる医師。自然体で話せた素敵な女医。簡単に結論を出さない良心的な温かいクリニックなど、素晴らしいお医者さんたちも多数いるのだ。しかし、全員に共通しているのは薬で治療をするという方針だ。子どものころのトラウマなどの根本原因の追求や薬以外での治療を試みる医師はいなかった。
本書はうつに悩み、精神科を探している人にとっては必読書だと思う。いま精神科に通っている人も読むべきかもしれない。診てもらっている医師が本書に登場するどのパターンに似ているかを考えるだけでも役に立つだろう。少なくともセカンドオピニオンをとるべきかどうかの判断材料になるだろう。精神状態に若干でも不安がある人にとっても、精神科とはどんなところか、何をされるのか、待合室はどのようになっているのか、お金はどの程度かかるのか、というガイドブックとしても読むことができる。
しかし、本書は実用だけの本ではない。都会の精神科というジャングルを探検するルポに仕上がっているからだ。ジャングル探検での樹木や動物が、街並みや精神科の医師にとって変わっただけだ。次々と目の前に現れる妖しく懐かしい街。千差万別で予測不能な医師たち。これを冒険と呼ばずして本読みは務まらない。まさに「東京23区精神科潜入記」である。23区の精神科は独立した章になっているため、次々と現れる個性的な医師たちを知りたくて、ページを繰る手が止まらなくなる。
ところで、先日NHKの「ETV特集−トラウマからの解放」を見た。素晴らしい番組だった。制作者の言葉を紹介しよう。
薬が効きづらいうつ病や、摂食障害などの複雑な心の病、自傷行為・薬物依存などの問題行動の背景に、幼い頃に受けた虐待や性被害の心の傷・トラウマが深く関わっている場合が多いことが、最新の研究から明らかとなっています。
トラウマは戦争や災害、事件・事故などの惨事に限らず、日常生活の中の身近な問題でも長期に渡りさらされることで、心や身体にさまざまな不調をもたらす原因となります。そうした中で、最近、トラウマを解消する治療法が登場し、治療の現場で効果を発揮しています。トラウマの記憶そのものを治療することで、多くの人が心の病や体の不調の原因となっていたつらい記憶から解放される時代となってきています。
番組では、トラウマ治療を行う日本とアメリカのカウンセリングルームに密着。心の傷・トラウマをどのように癒していくのか、最前線の治療現場からの報告です。
多重人格障害に対応する臨床心理士や最新の治療法EMDRなど日米の事例が映像で紹介されており、この分野の理解を深めることができるはずだ。再放送は9月21日午前0:45(金曜日深夜)だそうだ。本書と併せてご覧になることをおススメする。薬に頼る従来型の精神科に行くべきか、カウンセリングを試みる精神科に行くべきかの判断に役立つであろう。
医学者仲野徹による今日の精神医学に関する本のレビュー。
青木薫による『代替医療解剖』文庫版あとがき。精神の働きであるプラセボとその効果についてじつに興味深い。