本書において、著者は、日常生活の様々な場面においてウェブへのアクセスが発生する現在の状況を「現実空間の多孔化」と呼び、そのような状況が、社会にどのような影響を及ぼしているかを考察する。
本書は、当初はAR(Augumented Reality)等の「現実世界とネットの情報を紐づける技術」について社会学的に考察することを想定していた。しかし、その後、東日本大震災が発生し、より抽象度の高い問題を扱う方向に内容が練り直された。「現実空間の情報化が進むことで人々の間がますます分断されていく」という問題設定が、より重要な意味をもつようになったのだ。結果的に本書は、個人のみならず地域レベルの集団が、どのようにすれば「共同性」と「記憶」を保持できるか、という課題に向かう。キーとなるのは、自分の活動が自分にフィードバックされる「再帰性」だ。
第一部では、「現実空間の多孔化」の概念について説明される。スマートフォンの登場により、ネットの情報はいよいよ日常生活に入りこんできた。空いている時間に、時には空いていない時間に、わたしたちはウェブ上の情報にアクセスしている。その時間帯に現実世界のどこにいて、なにをしているか。それが本書が注目するポイントだ。現実の活動の「隙間」にウェブへのアクセスが組み込まれているという現象を地理的な視点から見れば、現実空間のところどころに、ネット情報へアクセスする「穴」があいている、という風に考えられる。これが「現実空間の多孔化」である。
ウェブへのアクセスには様々な用途がある。たとえば「地図情報」へのアクセスは、「空間の解像度を上げる」という効果がある。さらに進んだところでは『ドラゴンクエストIX』で話題になった「ルイーダの酒場」のように、現実世界に「新しい意味」を上書きする例が出てきた。「ルイーダの酒場」は、ニンテンドーDSの「すれちがい通信」で難しいアイテムを手に入れるためにプレーヤーたちが自然発生的に集まるようになった場所のことだ。たとえば「秋葉原のヨドバシカメラの前」などである。
ウェブは、現実空間を「資源化」し、新しい意味を発生させる力を持っている。ウェブと現実世界のやりとりは、頻繁で、大量で、終わりが無く、お互いに影響を及ぼし合う。その結果、ウェブの世界には、現実世界と双対となる「情報空間」が生み出される。本書が指摘するのは、このような胡蝶の夢のような状況である。
私たちはいまや、ウェブが作り出した現実と、そうでない現実の両方に足をかけながら、両者の優先順位を判断し、どちらをより重要だとみなすかを考えながら生きていかなければならないような、そういう時代の中にいる。どちらが「ほんもの」かではなく、どちらが自分にとって、社会にとって大事なのかを、私たち自身の判断として選びとらなければならないのだ。
ウェブ上の情報と相互に影響を及ぼしあっているのは「モノ」だけではない。本書は、ソーシャルメディア上に形成される「自分」についても同様に考察する。人はウェブ上で他人から見られる自分を演出し、そのことで安定的な自己像を獲得しているのではないか。と、著者は考える。その一方で、ウェブと影響を及ぼし合うことが「安定した自分像」に結びつくとは限らない。「見て欲しいようにみてもらっているかどうか」が不安になる心理や、家や会社等、場所に応じて異なる自分の「役割」が混在してしまう問題は、「自分」が「多孔化」されることによって生じる歪みである。
このような内容を踏まえて、著者は、どのようにすればウェブ時代の世の中で「共同性」が達成できるかについて考える。「現実空間の多孔化」は、「高級レストランで料理の写真をアップロードする行為」や「恋人同士の食事の最中にスマホを見る行為」のように、日常生活のコンテクストに割り込み、コミュニティの分断を引き起こす。これはマイナスだ。しかし、その一方で、ウェブ上の「情報空間」での地域情報を「ルイーダの酒場」のように上書きし、新たなコミュニティを作りだすことが出来ないだろうか?これが、東日本大震災の後の著者の問題意識である。
「多孔化した社会でコミュニティを作る」という観点から著者が注目したのは、「観光」と「アニメの聖地巡礼」であった。そこには、観る側と観られる側の関係があり、ウェブ上の情報空間に新たに生成される物語がある。また、コミュニティの「集団的記憶」を持続するためには「儀礼」が重要と指摘される。私は、なんとなく、受験シーズンの「キットカット」キャンペーンを思い出した。コミュニティには喪失感が関わっているそうだ。ウェブは、記憶の「せつなさ」を表現して、「情報空間」の中に「ジモト」を作ることが出来るだろうか。
著者は「グローバリゼーションの逆の側面」としてのコミュニティについても考察している。本書につながる記述も多い。
“ 今日「共同体」と呼ばれているものは、等しくバーチャル・コミュニティなのだ。だから「リアルなコミュニティと想像されるコミュニティの区別を放棄する必要がある」とデランティは述べるのである。”
「堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落なのだ。」 レビューはこちら