「やっと、文庫化だよ」
「これは一気読みでした」
「ロンドンにあるハンターの博物館、行ってみたいんだよね」
「原題って、the knife manなんだ。迫力あるなあ」
好き勝手なことを口々にHONZメンバーがつぶやき合ったのは、2013年の8月7日、午前8時25分。早朝7時から9時まで、自分の読みたいお勧め本を持ち寄り、語り合う「朝会」でのことだ。
単行本刊行時にも話題になったこの本は、まず伝記として、傑作だと思う。
そのうえ、この『ドリトル先生』や『ジキル博士とハイド氏』のモデルだと言われるジョン・ハンターという人物がすこぶる魅力的な奇人で、その逸話の数々は、読むと誰かに話したくなるものばかり。まだ本を読んでいない人も、読めば、冒頭のHONZメンバーと同じようなことを言ってしまうにちがいない。
というわけで、本書は文庫新刊でもあるのだが、長く広く読まれることを願って、プレミアム・レビュー欄で紹介したいと思う。
主人公のジョン・ハンターは、歳の離れた開業外科医の兄、ウィリアムを頼り、生まれ育ったスコットランドの農村からロンドンへ移り住み、そのまま兄の「解剖学講座」を手伝う。実際に解剖技術を教え始めていたのだ。商売上手な兄は、講義用の死体集めや外科解剖そのものを弟にまかせるようになり、手先が器用な弟は、見事に兄の期待に応え、それどころか解剖技術では兄を瞬く間に凌駕していった。
ハンターが活躍した18世紀といえば、探検家たちが海へ乗り出し地図にない土地を求める、競争の幕開け時代だ。医学の分野でも、新たな科学としての領域へ、今まで知られていなかった「人体」の未踏の領域へ分け入ろうとしていた。未知への好奇心が、特にイギリスでは博物学として花開いていくのもこの頃からだ。
一方で、抗生物質などもちろんなく、出産は命がけ、衛生の概念さえなかった時代で、非常に不潔で感染症による死亡が多く、治療法も有毒物質でつくった薬を飲んだり、下剤で吐かせたり、「悪い」血を抜く瀉血だったりと、根拠のない過激なものだった。
ハンターは、実験を繰り返し、仮説を検証しながら試行錯誤して結論を導きだす科学的な手法で知識を深める一方、無駄な外科手術を避けるように教え、必要な手術では冴え渡った技術を見せる。ついには国王の特命外科医として王室のお墨付きを得、軍医としても外科の副軍医総監にまでのぼりつめる。世界初の人工授精の成功や除細動器の使用による心肺蘇生など具体的な治療における功績も多く、「近代外科医学の父」と後世に呼ばれることになった。
ハンターのメスに裁かれた著名人も多い。枚挙に暇がないが、たとえば時の首相、小ピットは頬の腫瘍を、経済学者のアダム・スミスは痔を、手術で摘出してもらったそうだ。
本書の醍醐味は、今私たちが享受している医療の発達が、どんな葛藤を経てきたかの裏面史をユーモアとともに教えてくれるところにもあるだろう。
死体の扱い方そのものも興味深い。死後の身体にどう向き合うかは、時代や文化で違いがあり、良し悪しではない。ただ、その扱いを見れば、その文化や民俗がわかってくる。
ハンターの時代は、宗教的に身体を切り刻まれる嫌悪感がまだまだ大きかった一方で、解剖のための死体の需要は多かったため、専門の雇われ墓堀人まで登場していたというから驚きだ。死刑執行の後は、遺体の足を引っ張り合う程の争奪戦が繰り広げられ、人々は自らの死後を考えて震え上がったそうだ。死体欲しさに、ついには殺人まで起きたというから尋常ではない。
ちなみに、「献体」という考え方が広まるのはもう少し先になってからのことだ。そういえば、日本では献体の登録者数が増えているそうだが、理由はなんだろう。
ハンターは、貧乏人からは高いお金をとらず、金持ちからはきっちりと報酬を得た。また、教えを乞うものには惜しみなく知識を共有していた。明るく情熱的な態度で、生徒や患者からも結構人気があったようだ。標本や死体には、糸目をつけずにお金を費やしてもいた。おかげでいつも借金漬けだったようだが、頓着するポイントが世人とは違ったのだろう。
が、兄弟間の確執や、勤務先の病院の同僚との軋轢、えげつない死体の奪い合いなど、頑固な性格もあって周囲との摩擦も多かった。性病の実験を自分で試したり、世界中から珍獣を集めたり、アイルランド人の巨人の死体を生前に(!)本人から買おうとしたり……。
書き始めると際限のないハンターの変人ぶり。まっすぐな情熱が感じられるせいか、読んでいると小気味よいのだが、同時代のひとは、名医と変人の両面を『ジキル博士とハイド氏』のように見ていたのではなかろうか。
各時代各分野の優れた伝記を読めば、世界の全体像が結構見えてきそうだ。
ハンターの生きた時代を肌で感じさせてくれる一冊として秀逸な本書を読んでいると、そんなことを思う。こんな伝記がもっとあって欲しい、とも。
ちなみに、ハンターは、教育に多くの時間を割いたためか、教え子が多い。そのうちのひとり、エドワード・ジェンナーは、天然痘のワクチンを見つけ、多くの人の命を救う事になった。
時代や場の要諦となる変人を、ひとりでもそれぞれの歴史のシーンで知っていると、「世界」が面白くなることは間違いなさそうだ。
変人奇人と呼ばれる人は、だれもやらないことをする。
いや、むしろそういう役回りのひとを、奇人変人と呼ぶものなのもしれない。