アルバイト店員が内輪向けのネタ画像をアップして炎上するなどの騒ぎが相次いでいる。この問題における一つの論点となっているのが、学歴の格差というものだ。「低学歴の世界」というセンセーショナルなフレーズとともに、多くの言葉が交わされているが、一昔前によく見かけた、都市と地方の格差という議論にもよく似た印象を受ける。
格差、就職難、ワーキングプア、社会からの孤立。これらの問題のルーツとなるようなものを辿っていくと、昭和初期に起きた一つの奇妙な事件に行き当たる。それが本書で取り上げられている「血盟団事件」というものだ。
この事件は、日蓮主義者・井上日召に感化された若者たちが引き起こした連続テロ事件のことを指す。殺されたのは、元・大蔵大臣の井上準之助と三井財閥総帥の団琢磨。暗殺した小沼正、菱沼五郎の両者は、共に茨城県大洗周辺出身の幼馴染みの青年集団であり、日蓮宗の信仰を共にする仲間でもあった。
※法廷内の血盟団事件の被告(堀幸雄『最新 右翼辞典』柏書房株式会社、Wikipediaより引用)
とりわけこの事件が奇妙なのは、茨城の農村グループと東大生を中心とした学生グループという、2つの集団の連携によって計画が推し進められたということだ。一体なぜ、平穏な農村の青年たちが、過激なテロリズムへと走ったのか。そしてなぜ、地方の下層社会の青年と東京帝国大学のエリート学生という二つの集団が交わることになったのか。
農村グループの青年達に共通していたのは、その多くが煩悶を抱えていたということである。当時の日本社会は、世界恐慌の煽りを受け、深刻な不況が続いていた。特に地方や農村部の荒廃は、ひどい有様であったという。そこに彼ら個々人の理不尽な挫折体験も重なり、不透明な不安と鬱屈が蔓延していたのである。
ある者は、懸命に生きる下町の中小企業の社長が、いとも簡単に権力と資本主義の論理によって破綻へと追いやられる現状に打ちのめされ、またある者は、農村社会の疲弊に直面し苛立ちを募らせた。彼らの多くは、決してウチに閉じこもってばかりいたわけではない。要は格差そのものではなく、そこに気付いてしまったことが彼らを苦しめたのである。そんな閉塞的な時代の中で、彼らは実存的な不安を抱え、スピリチュアルな救いを求めていった。
大洗の護国道住職であった井上日召にとって、農村グループの青年を操ることなど、容易いことであっただろう。なぜなら、それは彼にとってのいつか来た道。井上日召もまた、煩悶青年で、子供の頃から人生に対する疑問を持っていたのだ。
一番最初の疑問は、桔梗の花の色はなぜ紫なのかというものであったという。彼は世界に対する根本的な疑問をもち、次第に考え込むようになる。そして疑問を持つこと自体を疑問視する世間に対して、ますます懐疑的になっていったのだ。
やがて彼は各地を転々と流浪し始める。群馬、東京、満州、北京、茨城。そして本書の前半部では、彼が経たキリスト教、曹洞宗、日蓮宗という信仰の道を、その上に重ね合わせることによって「覚醒」していく様を描き出す。
一方で、格差とは無縁のように思える帝国大学のエリート学生たちは、なぜ煩悶に苦しめられたのか。きっかけは国家間の格差というものに端を発した憤りからであった。彼らは自らの煩悶と時代の苦悩を重ねて捉えることによって、国家を懐疑的なまなざしで見つめるようになり、さらには改造の必要性に突き動かされた。つまり革命による完全なる国家を求め、その中に己のアイデンティティを見出そうとしたのである。
学生グループの中心的な人物は、四元義隆。血盟団事件に加わり、のちに戦後政治のフィクサー的役割を果たした大物である。中曽根康弘をはじめ、福田赳夫、大平正芳、細川護煕など、四元の薫陶を受けた首相経験者は数多い。学生たちと井上日召の出会いは、あくまでも偶然な出来事であった。だが日蓮主義を媒介として融合した、井上のスピリチュアリズムと国家主義にやがては飲み込まれていく。
近年では秋葉原殺人事件に見られるように、ネットとリアルをめぐるアイデンティティの問題というものが散見されるが、当時の彼らは国家と個人をめぐるアイデンティティの問題に苦しんだ。自己の救いと社会の覚醒を一体的なものとして捉えるようになり、国家は代替不可能なものに、個人は代替可能なものへと逆転していったのである。
それゆえの暗殺テロであった。格差と格差がスピリチュアリズムによって結びついた時、煩悶はうねりを上げる。彼らのモットーは「一人一殺」。
井上準之助を殺した小沼正は、その瞬間、心の中で「南無妙法蓮華経」と唱えた。
団琢磨を射殺した菱沼五郎は、事件後、「これは神秘的な暗殺だ」と語った。
当時憂国気取りの集団など、ごまんと存在した。だがこの瞬間、少なくとも「実行力」という格差において彼らはピラミッドの頂点に立ったのである。そして血盟団事件は同年の5.15事件、1936年の2.26事件へとつながり、戦前の歴史のターニングポイントになっていく。さらに国民の不満は対外的膨張主義へと回収され、戦争への道を歩み出すのだ。
この事件を「狂信的な宗教集団が起こした凶悪事件」と断罪することは容易なことであるだろう。だが本書はこれを、きわめて現代的な視点から読み解こうとする。四元義隆の人となりを語る中曽根康弘のインタビュー、血盟団最後の生き残りとされる川崎長光氏のインタビューなどを、この時代に敢行したのもその表れと言えるだろう。この他にも事件の鍵となる人物の周辺取材として、井上涼子氏(井上日召の娘)、團紀彦氏(團琢磨の曾孫)などが掲載されている。
本書で描かれている事件は恐ろしい。だが、誤解を恐れずに言えば、断片的なシンパシーを感じてしまうのも事実だ。格差だってレイヤー化する。自分の中のコンプレックスを刺激され、彼らの行動原理がおぼろげながらも理解出来てしまうということが、なお恐ろしいのである。
血盟団事件を昭和初期という時代の流れでおさえるための一冊。
血盟団はテロ後の政権構想や具体的計画を、まったく持っていなかった。彼らは、ただ自己犠牲を伴う破壊に生きようとしたのである。一方で、世界の統一という理想を、軍事的な手法で具現化したのが石原莞爾だ。満州という人工国家を、彼はどのように夢想したのか。
学術論文的な考察と、ルポルタージュとしてのリアリティ、その双方を兼ね備えた「論文ルポルタージュ」とでも言うべき新感覚の一冊。その中では、「あってはならぬもの」同士が相互に接続しながら、もう一つ別のレイヤーを作り出している構図が浮かび上がっている。レビューはこちら
特定小数を求めて不特定多数を殺した加藤智大の軌跡。一方血盟団は、不特定多数を求めて特定小数を殺害した。