昨年10月、清水市代女流王将(当時)とコンピュータ将棋「あから2010」が対戦した。誰もが指摘せずにはいられない「あからのキャラクターの(別の意味での)すごさ(こちらやこちらをご参考に。本書の表紙のとギャップが……)を含め、対戦当日は、twitterでも#vsComshogiのハッシュタグが大いに盛り上がり、TLに熱を帯びたtweetが次々と流れ込んできた。
この「熱」を体感せずに、「86手であからが勝利した」という結果だけニュースで知れば、「なんだ、あからの圧勝じゃないか、コンピュータ強いな」ということでおしまいになってしまうかも知れないし、実際そういうコメントも試合後多々、ネット上で目にした。
しかし、そうではないことは、本書の第五章を読めばよくわかるだろう。戦いが持つ熱、会場の熱気、それがストレートに伝わってきて、将棋など小学生以来やったことのない私が読んでも、胸が熱くなり、息を呑み、興奮した。ずいぶん昔だが、週刊誌で仕事をしていたときには、いわゆる大きなタイトルの観戦記を何度も読んだが、ここまで熱気に溢れ、わかりやすく、スリリングな将棋の対決をめぐる記述を他に知らない。
その理由は、いくつかある。
まず、「あから」のログ、つまり、どんな行程で指し手が決められたのかが明示され、清水さんの手が、あからの予想通りだとコンピュータは「予想的中!」と言うなど(実際に言う訳じゃないが、そんなイメージ)、コンピュータ側の思考が見えることだ。実は「あから」は4つの既存のコンピュ—タ将棋ソフトが多数決で指し手を決める合議システム。そのコンピュータソフト同士が、多数決で手を選ぶ様もログからわかり、清水さんの手に対して、ソフトが4人であーだこーだ議論しているようで面白い(ちなみに、コンピュータ将棋好きだと、ログを読みながら「さすが『激指』いい手を選んでいるな」とか「『ボナンザ』だけやけに派手な手を主張していて、他のソフトに却下されている」とか、凡人には計り知れないマニアックな楽しみ方もあるらしい)。
そして対戦後の清水さんに取材をしていて、「あから」の指し手に何を感じたかも、しっかり話を聞いている。両者の思考を押さえることで、盤を挟んだ真摯な対話としての将棋をほぼ描き切っているのだ。
第五章の熱は、そのあとゆっくりと拡散してゆく。そもそもコンピュータ将棋は人工知能研究に端を発していること、そしてコンピュータに人のような知能を持たせるには、直感や閃きを持たせることが大きな課題であり、そのためには大きなブレークスルーが必要であることが示される。このあたりで、なぜ本書の表紙がヒューマノイドであるのかも、明確になってくる。
著者らは、コンピュータ将棋の開発が結局のところ「人ってなんだろう」という探求」だというベクトルを示す。それが本書の読後感を包む暖かな余韻の理由かもしれない。