本書によれば、誘拐事件は世界で毎年2万件以上報告されている。発生件数は過去12ヵ月で倍増した。今この時間にも、監禁されている人質が世界中に何百人もいる。そのうち当局に通報があるものは10分の1に満たない。70%は身代金の支払いによって解決する。力ずくで救出される割合は、わずか10%だ。身代金の要求額は5000ドルから1億ドルまで(1ドル80円換算で、40万円から80億円)と幅広い。
著者のベン・ロペスさん(仮名)は、このような営利誘拐(K&R:Kidnap for Ransom)の世界で20年以上コンサルティングを行ってきたプロの交渉人である。現在はロンドンに在住しており、心理学の博士課程を卒業後、営利誘拐事件における心理的なサポートを保険会社に提案して業界に仲間入りした。以来、誘拐事件の民間コンサルタントとして、現地に「危機管理室」を設置して指揮する立場を担っている。現地に交渉人を派遣する意義の一つは、身代金が下がることだ。例えばパキスタンのカラチでのケースでは、当初200万ドルと要求された身代金が、交渉によって25万2000ドルまで下げられた。「普通は誘拐犯に10%まで下げさせる」と言う。世界中の交渉の現場を飛び回りながら、ニューヨーク市警やロンドン警視庁の人質交渉人コースのカリキュラム策定に関わり、ロンドン・ビジネススクールで講義を行ったりしている。ちなみに、ニューヨーク市警は世界で初めて人質交渉班が結成された場所らしい。1国の警察よりグローバルなネゴシエイターである。
とはいえ、日本では誘拐のニュースをあまり聞かないような気がするが、本書によれば、営利誘拐は「半ば破綻している」国に特有の現象だという。破綻していない国では、警察が優秀で十分な給料をもらっているため、誘拐犯が逮捕される可能性が高い。一方、完全に破綻している国では、誘拐犯にとっても現地の状況が混沌としており、また、誘拐する価値のある人間は厳重な安全対策をとっている。誘拐が多発する「半ば破綻している」国とは例えばコロンビアのような国で、都市の管理は行き届いているが、地方はほったらかしになっている。コロンビアでは誘拐が1日に10件発生し、誘拐犯が起訴される割合は3%だ。アメリカでは95%が起訴まで持ち込まれるという。
営利誘拐が表沙汰にならない理由は他にもある。警察は犯人を逮捕しようとするが、交渉人にとっては、人質を良い状態で取り戻せれば誘拐犯がどうなろうと気にしない。ほとんどの場合、犯人は金を手にして、刑務所に入ることもない。なので表沙汰にならない。誘拐のニュースが出てしまうと、事態がややこしくなるだけだ。また「ニュースが出た」という事実自体が、しばしば無学で世間知らずな犯人にとっては「人質が有名でお金持ち」だということを意味してしまう。
人質交渉においては、犯人の頭のなかでなにが起きているのか、その基本的な理解が求められ、そこに心理学者であるロペスさんが入り込む余地が発生する。たとえば、偏執狂の犯人と話す際には、交渉の戦略として「犯人の友達になろう」などとは絶対に思ってはいけない。誇大妄想癖のある犯人は、自分の身に何か「いいこと」があるとは思わない。なにか「ひどいこと」が起こるのではないかと心配している。警察官向けに講義をするときには、「ただの論理」ではなく、「サイコ・ロジック」を見抜く洞察力を与えるという。つまり、一般人には正しいと思えないが、犯罪者にとってはそれなりに筋が通っている論理というものを教えておく。そうすれば、実際に事件が起きた時、「この犯人はもしかしたらこのように考えているのではないか」と閃くようになり、表面的に奇異に思える振る舞いについて、前よりうまく対処することができるようになる。
本書には、交渉人になるまでの経緯や仕事の概要に加え、今まで発生した事件の詳細が物語形式で書かれている。民間のコンサルタントとして誘拐現場に直行し、なにからなにまで(下手をすると身代金引き渡しのドライバーまで)行う。危機管理室の設置、家族への対応、身代金の交渉、引き渡し、事後のケアなど、20年の経験から得られた知見を知ることができる本だ。ちなみに、事件を担当することに合意してから最初に行うことは、その後いつチャンスがあるかわからないという理由で「トイレに行く」らしい。
ロペスさんは、自分が誘拐されたらどうなるのか、という質問をよくされるそうだ。答えはもちろん「説明できない」。ただ、心構えはアドバイスできる。詳細は本書に譲るが、冷静さを保つこと、逃げようとしないこと、犯人の眼を見ないこと等、様々なアドバイスが書かれている。将来役に立たないことを祈るばかりだ。いつか役に立ちそうなものもある。たとえば、精神的ダメージを治療する際、EMDR療法という眼球運動を行う療法が何故か目覚ましい効果を上げる場合があるという。個人的に一番感銘を受けたのは、事件の現場に銃ではなくゴムのニワトリを持ち込むという話だ。
そんな状況と向かい合うとき、私はニワトリを見つめてひそかに思う。いいか、そんなに悪くない、こっちにはニワトリがいると。
私はいま、とある白い犬のぬいぐるみを持ち歩くかどうかを考えている。やっぱり、ゴムのニワトリでないと効果がないだろうか?
実際に危険が身近に迫ったとき、人はどのような状態に陥るのか。脳の信号経路には反射的・情動的な「Xシステム」と、理性的な「Cシステム」の2系統が存在し、過大な恐怖によって脳がXシステムの系統に切り替わるとパニックに陥る。どうすれば生死の瀬戸際で思考停止を避け、適切な判断を下すことができるか。数々の事例によって修羅場の心理を知ることができる一冊。