争うは本意ならねど ドーピング冤罪を晴らした我那覇和樹と彼を支えた人々の美らゴール
- 作者: 木村元彦
- 出版社/集英社インターナショナル
- 発売日: 2011/12/15
我那覇和樹。サッカーに興味がある人ならば聞いたことがある名前だろう。5年ほど前、彼はサッカーサークルの中心部にいたはずだ。2006年、我那覇は輝いていた。サッカーJ1リーグの川崎フロンターレに所属していた彼は、その年、リーグ戦32試合で52本のシュートを放ち、18得点を挙げた。ゴール数は日本人最多、シュート決定率は35%で外国人ストライカーも抑え、Jリーグ1位だった。活躍が認められ、沖縄生まれ初めての日本代表にも選出された。年齢も26才。これから選手としてピークを迎える時期にあった。浮き沈みの激しいスポーツの世界とはいえ彼の半年先いや、1年先ですら悲観視する関係者はいなかったはずだ。
だが現実は違った。彼はその翌年、ドーピング疑惑をかけられた。出場停止処分をくだされ、レギュラーの座も奪われた。その後、ヴィッセル神戸を経て、今は3部リーグに当たるJFLの琉球FCに所属している。
サッカーをすっかり観なくなったこともあり、本書を読むまで私も恥ずかしながら、「ドーピングのごたごたで一線から消えていった人」という認識を持っていた。インターネットでも検索をかけてみたが、同じような見方が散見された。だが、全く真実は異なっていた。世の中には異なる角度から見れば何通りもの解釈ができる事象も存在する。ただ、我那覇の件は著者が指摘するように「完全な真っ白」としかいいようがないだろう。権力側の人間が、引くに引けず、白いものを黒くしてしまった印象しか受けない。そこには今や国民的人気スポーツになったサッカー界の旧態依然とした体質を感じずに入られない。
我那覇和樹のドーピング疑惑は07年の4月24日に「にんにく注射でパワー全開」というサンケイスポーツの一本の記事がきっかけだった。この記事がJリーグのドーピングコントロール(DC)委員会で問題となり、川崎フロンターレに通達がなされ、出場自粛が我那覇に求められたのだ。この記事が事実ならば、確かにドーピング禁止規定に抵触する。健康体に疲労回復を目的に、ビタミンB1など栄養剤をワンショットで注入するにんにく注射は禁じられている。特に、Jリーグでは07年からJリーグのドーピング禁止規定が準拠しているWADA(世界アンチ・ドーピング機構)に倣ってドーピング規定を改正。禁止薬物だけでなく禁止方法も含まれるようになり、健康体に打つにんにく注射をドーピングに含むことにした直後のため、J側が過剰に反応する理由も求められた。
だが、実際、我那覇は「にんにく注射」などしていない。練習後、38度近い熱があり、感冒であったため、ビタミンB1を入れた生理食塩水を30分程度かけて点滴治療したのだ。医学的知識が足りなければ健康体へのにんにく注射も医療行為としての点滴治療も、体内にビタミンを静脈注射する点は同じなだけに差がわかりにくいかもしれない。
実際、記者だけでなく、Jリーグから通達を受けた川崎フロンターレのスタッフも、治療行為に当たったチームドクターに事情も聞かず、報道を肯定する報告のFAXを急かされるまま返してしまった。
だが、我那覇の件がドーピングにひっかかれば、世界中のサッカー選手がドーピング違反になりかねない。身近な例で言えば06年のドイツW杯時に体調不良が続いた中村俊輔は点滴治療を受けている。WADAを正しく理解していれば全く持って問題なかったのである。単なるサンスポの誤報とスタッフのミスで済むはずの出来事だったのだ。
我那覇もチームドクターも5月1日に開かれる処分を決定する事情徴取で真実を語れば疑いは完全にクリアになると考えていた。だが、二人を待ち受けていたのは、徴取とは名ばかりの結論ありきのような詰問だった。結果、我那覇は6試合の出場停止処分を受ける。そして、それは日本国内では決着がつかず(Jリーグ側が拒否)、海外のスポーツ仲裁裁判所(CAS)にまで舞台を移して繰り広げられた、冤罪を証明するための1年以上にわたる道のりの始まりでもあった。
本書の読みどころは、我那覇と我那覇に処置を施したドクターの名誉回復に動くJリーグ全チームのドクターやそれを支援する人々と、Jリーグ側のやりとりだ。著者は、本件に関わる会議や委員会の議事録や音声データを基に時系列に経緯を辿ることで、いかに裁いたJリーグ側が論理的に破綻した説明を繰り返したかを明らかにしている。
結論を書いてしまうと、出発点はJリーグ側がドーピング規定の元になるWADAを解釈ミスしていた点にあった。ただ、過ちが露呈しながらも詭弁に詭弁を重ね、逃げまくってしまう。ドクターからの質問状は怪文書扱いで裁定はやり直さない。本書でのやりとりを見る限り、引くに引けずに突っ走り、故意にドーピング違反に仕立てた疑いすら生じかねない。実際、過ちを正当化するようなルールを策定することで過去を肯定するような動きすらも見せる。そして、その行動原理になっているのが、組織内の人間関係や学閥だ。日本の縮図がそこには透けて見えてしまう。
本件についてはJリーグとチームドクターたちの権力争いとの見方も一部ではあるらしい。実際、我那覇自身は最初の事情聴取後、沈黙を守る。Jリーグ側と医療行為の是非について、意見を交わすのはJリーグ全チームのドクターたちだ。だが、ドクターとJリーグ側の議事録などを紐解けば、適切な医療を選手に受けさせたい、我那覇の汚名を濯ぎたいという彼らの意志がひしひしと伝わってくる。
我那覇自身は最終的に裁判に踏み切るが、葛藤も当然あったことがうかがえる。声高に叫ぶリスクもあったに違いない。周囲からは「もう忘れて前を向け」と諭されたこともあったという。だが、Jリーグと戦うドクターの一人から届いた一通の手紙で立ち上がる。そこには「この間違った前例が残ると今後の全てのスポーツ選手が適切な点滴医療を受ける際に常にドーピング違反に後で問われるかもしれないという恐怖にさらされます」とあった。本書のタイトルどおり「争うのは本意でなかった」我那覇だが、この手紙の数行が我那覇の覚悟を決めた。
これが決して綺麗事でないのは、我那覇が損害賠償などは一切請求していない点からも伺える。Jリーグ側が国内での裁定を突っぱね、CASに持ち込んだことで三千万以上の私財を投じることになったにもかかわらずだ(選手会などの協力や募金などの援助はあった。ただ、本書には記載はないが、08年3月の報道では650万円を自己負担している。無実を証明するだけでだ)。裁判でJリーグ側はCAS史上、希に見る完敗をしたにも関わらず、我那覇への謝罪は未だに無い。
巻末には当時のJリーグのチェアマンであった鬼武健二と我那覇のインタビューがそれぞれ収録されている。我々、読者としてはあの一年がなければという思いはあるが、我那覇の言葉からはそれを感じさせない。いや、表には出さず、ただひたすら前だけを見つめている。
我那覇は2010年W杯では沖縄初のW杯戦士にはなれなかった。もちろん、順調にいったところで選ばれなかった可能性も高い。ただ、Jリーグという組織に運命を大きく揺さぶられたのは紛れもない事実だ。そして、今後、プレーでかつての輝きを取り戻せるかもわからない。だが、著者が指摘するように、孤独に耐え押しつぶされそうになりながらも、我那覇がJリーグやアスリートを救ったことは間違いない。その功績はもしかしたら、W杯でゴールをあげることよりも大きいのかもしれない。