1793年にグレートブリテン王国(イギリス)とスペインとの間に「ジェンキンスの耳戦争」という海上の覇権を争う戦争が勃発した。ローバート・ジェンキンスという商船の船長がスペイン当局に拿捕され耳を切り落とされるという事件への報復という名目で、イギリス側が宣戦布告したためにこのような名前で呼ばれるようになった戦争だ。
この戦争はやがてオーストリア継承戦争にまで拡大することになるのだが、本書ではそのあたりの歴史は一切関係がない。本書『絶海』が扱っているのは、この戦争のさなか秘密の任務を与えられたジョージ・アンソン代将率いる小艦隊の物語だ。ジョージ・アンソンは貴族階級出身の海軍士官ではあるが出世のペースは遅かった。高い能力を持ちつつも有力者のコネやゴマすりを良しとしない性格のためだ。そのためにアンソン旗下の士官たちも不遇を託っていた。しかし、ジェンキンスの耳戦争はアンソンとその配下の士官たちに大きなチャンスをもたらす。彼らが海軍から与えられた任務は数隻からなる小艦隊を率い秘密裏に大西洋を横断。そこから南米大陸を南下しホーン岬を周回して太平洋側に入り、スペインの財宝を運搬するガレオン船を拿捕し財宝を分捕るというものだ。任務成功のあかつきには末端の船員にいたるまで、かなりの分け前が与えられることが示唆されていた。
一攫千金のチャンスにひときわ大きな希望を見出している男がいた。デイヴィッド・チープ一等海尉だ。彼は地方の名家出身だが貴族階級ではない。実家は裕福な家であったのだが、異母兄の現当主が後妻の子であるデイヴィッドらに所定の年金を払わないことが多く争いが絶えなかった。とにかく自活の道を探るしかなくなったデイヴィッド・チープは商店で働き始める。たが生活レベルを落とすことができずに、膨大な借金を作ってしまう。彼は人生の再起を目指すべく、海軍に入隊しアンソンの元で勤務にまい進してきた。その能力は高く評価され、今ではアンソン艦長の右腕として活躍している。デイヴィッド・チープ今回の作戦で手柄をたて借金の完済と艦長への昇進を目指す。
債権者に追われるデイヴィッド・チープは一刻も早い出航を目指していたが、艦隊の出航は遅れに遅れていた。当時の木造帆船はその優美な姿とは裏腹にかなり厄介な代物だ。船の材料は大半が耐久性に優れたオーク材だが、それでも海水や嵐といった自然の力の浸食を受けやすく、フナクイムシ、シロアリ、シバンムシなどに食い荒らされ、甲板やマスト、船室の扉にいたるまで穴だらけになってしまう。当時の軍艦の平均寿命は14年ほどで、航海から戻った後は数か月にわたる補修工事が必要だった。アンソン艦隊の旗艦センチュリオン号も大幅な補修工事が必要だが、遅々として工事は進まない。デイヴィッド・チープは海軍省に何度もセンチュリオン号の補修を催促する手紙を書いている。しかし補修工事を待つ間にも、最初に補修した箇所がフナクイムシに食い荒らされボロボロになってしまうという有様であった。
さらに輪をかけて深刻なのが乗員の確保だ。すでに多くの兵が主力艦隊に割り振られていたために、アンソンの小艦隊では乗員の不足が深刻化していた。海軍省は乗員の確保のために悪名高い強制徴募隊を街に繰り出す。彼らの多くはギャングやならず者でこん棒を片手に街に繰り出して、過酷な船上生活に耐えられそうな男を見つけるや取り囲み、力ずくで徴兵するという拉致まがいの行為を繰り返すのだ。というのも当時の船上の生活は辛酸を極めたために徴兵逃れが横行していた。船内には常に水が染み込むため、船の下層部は腐った水が溜まり悪臭を放ち、その上にゴキブリやネズミが大量に繁殖し船員の足元をはい回る。航海中は入浴もままならず垢にまみれで生活することになる。航海も日数を重ねれば壊血病や腸チフス、熱帯性の熱病など致死率の高い病気が蔓延するが治療法は皆無とくる。さらに戦闘や事故でケガを負えば、傷口は壊死し麻酔のない状態で切断手術が行われるのだ。細菌の研究が進む前の時代だ。手術道具は未殺菌のままで、切断手術を受けた者の多くがそのまま死に至る。このような過酷な生活を余儀なくされるため、男たちの多くが海軍に徴兵されるのを恐れたのである。
拉致同然でアンソン艦隊に連れてこられた男たちも隙を見せれば逃亡してしまう。1日で30人ほどが姿をくらます。それだけではない、従軍牧師として派遣された神父も逃亡し、自分たちも徴兵されてはかなわないと強制徴募隊の面々までもが最後には逃げ出す始末。人員確保に失敗した海軍はチェルシーにある「王立病院」から傷病兵500人を強制的に徴兵する。この病院は「王国に仕えた老齢者や障がい者、病気」を抱えた年金生活が暮らす施設で、入居者の多くが60歳から70歳でリウマチや手足の痙攣、視覚障害などを抱えていた。若い時に王国のために戦い、老いて病に苛まれ病院で余生を過ごしていた老人たちを再び船上へと徴収したのである。最もポーツマスに向かう途中で歩くことの出来る者のほとんどが逃亡し、船に乗せられたのは立って歩くとができないものがほとんどであったという。もはや「艦隊」などと呼べる代物ではない。人生の再起をかけたデイヴィッド・チープの目にこのような状況がどう映ったかは分からないが、長い遅延の果てに艦隊はついに動き始める。
航海の詳細は本書に譲るが、予想通り辛酸を極める。出航後しばらくして壊血病と熱病が猛威を振るい多くの死者を出してしまう。艦隊のほとんどのものが熱病や壊血病に罹患し、健康な者が一人もいないという惨状である。そのために南米大陸の港で艦長のひとりが体調不良を言い訳にして逃亡。また小艦隊で最も有能で多くの将兵に信頼されていたパール号のダンディ・キッド艦長が熱病で死亡してしまう。艦長二人の欠員により、デイヴィッド・チープはウェイジャー号の艦長へと図らずも昇進する。
しかし運命は時に厳しい試練を人々に与える。チープ艦長も例外ではない。度重なる嵐と戦いながらホーン岬を周回し太平洋側へと抜けた艦隊であったが、ここでも嵐に見舞われ、チープ率いるウェイジャー号はチリ沖の浅瀬に座礁、難破してしまう。乗員の多くは小型艇で近くの無人島に漂着するのだが、この島は全くの不毛の島で、手に入る食料はごくわずか。すぐに飢餓が漂流者たちを苦しめる。また島を囲む海は年中荒れており、一年を通して冷たい雨風が吹き付ける最悪の島であった。彼らはここで、人肉食すら辞さない過酷なサバイバル生活を余儀なくされる。
本書の魅力は何といっても著者デイヴィッド・グランの徹底した調査に基づいた文章にある。著者はこの航海に参加した人々が書き残した膨大な日誌や回想録、さらには海軍に残された記録などを丹念に読み込み、乗員一人一人の人生や苦悩を生き生きと描き出す。デイヴィッド・チープのやや独善的な性格は過酷な漂流生活の中で反目を生み、やがて反乱を招くことになる。反乱勢力のリーダーで准士官である掌砲長のバルクリーは庶民下級出身で、本来ならば歴史に埋もれてしまいがちな人物なのだが、本書では彼自身が書き残した手記をベースに本人が語り掛けてくるかのよなリアルさで描き出されているのだ。他にも英国の貴族の中でも名家であるバイロン家の子息で16歳という若さで士官見習いとしてウエイジャー号に乗船していたジョン・バイロンの葛藤などは目の前に本人がいるのではと錯覚すら覚えてしまう。本書は上半期一番の興奮を覚えたノンフィクション作品である。