2022年2月24日、ロシア連邦がウクライナへ軍事侵攻を開始した。ロシアは東側諸国の多くを敵にまわし、カレンダーなどでマッチョな姿を披露していたプーチン大統領は、今では悪の首領のようにとらえられている。インターネットが発達した今、ロシアの中にも反体制派がいることを多くの人は知っているが、戦争が始まり1年が経っても和平への道は見えてこない。
東西冷戦時代、日本の隣国でありながらソビエト連邦(ソ連)は鉄のカーテンが降ろされた国と呼ばれていた。
そんな時代であってもモスクワ放送局から日本語のラジオ放送が流れてきていたのを知っているだろうか。
「ソ連国家ラジオ・テレビ委員会」が日本向けに社会主義陣営の盟主としての立場を伝えるため、日本人のアナウンサーを雇い、日本語で放送していたのだ。
『MOCT「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』は、高校時代にこの放送を聞き、ロシア語を学んだ経験を持つ毎日新聞社東京社会部記者の青島顕が、放送を担っていた日本人一人ひとりを取材し、彼らがなぜソ連に渡ったのか、どのような主義主張があったのかを、粘り強く取材した2023年第21回開高健ノンフィクション賞受賞作だ。
ソ連の対外放送「モスクワ放送」は1929年、ドイツ語から始まったという。まもなくフランス語、英語での放送が始まり、日本語放送の開始は第二次世界大戦中の1942年で、初代アナウンサーは「ムヘンシャン」と名乗る九州なまりの男性。のちに緒方重臣という亡命した船員だったと判明する。スタッフにはこのような亡命者や、後の共産党議長、野坂参三氏の妻、龍さん、社会主義運動家、片山潜氏の長女、やすさんなどがいた。
1972年に行われた開局30周年記念番組を文章に起こした原稿が残っており、そのときのアナウンサーは岡田嘉子さんと清田彰さんであったという。
岡田嘉子さんは1938年1月、共産主義者の演出家、杉本良吉と厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に亡命した女優だ。
同僚の清田彰さんは学徒出陣後にソ連に捕虜となって抑留生活を過ごし、その後モスクワ大学を卒業、スカウトされて40年以上もモスクワ放送で働いたという。
70年代になると、ノンポリなのに好奇心だけでモスクワ放送に採用された者もいる。西野肇さんだ。ロシア語もできない社会主義のイデオロギーと無縁な青年が、なぜ10年もこの国で仕事をしたのか。この経緯は興味深い。思えばこのころは東西冷戦が雪解け模様の時代だったのだ。
その後に起こったペレストロイカ、ソ連崩壊、新生ロシア、プーチン大統領誕生と、思えばロシアの国政はめまぐるしく変わっている。それでも日本語の放送は続いたが、2014年、ラジオ放送終了。2017年、インターネット放送も無くなった。
MOCTとはロシア語で「架け橋」のこと。混乱する世界情勢のなか、国と国とを取り持つ架け橋が今一番必要なのではないか。(ミステリマガジン3月号)
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