ワクチンを開発した科学者パスツールは「Chance favors the prepared mind.(幸運は用意された心のみに宿る)」という言葉を残している。準備する心によって偶然に気づくことができるのだということだろう。心構えはとしては納得できる、と同時に疑問が湧いてくる。チャンスそのものを増やしたり、再現性を高めることはは可能なのだろうか。
本書の射程は、チャンスそのものではない。チャンスや幸運を捕獲する網をよりよくデザインすることを検討する。心構え以上のものを探るということだろう。アプローチとしては、アート制作を通じて、「やってくる」チャンスを構造化し、掴むことの可能性を探究する。
生命基礎論の研究者である著者は、人工知能に対峙する徹底的に受動的な「天然知能」という生命のモデルを提唱し、関連した著作を出版してきた。著者としては、知能や創造性の研究はするものの、「アート」を制作することはもとより、表現することは埒外であった。しかし、出会いにより「天然表現」というアート作品の制作に取り組むことになった。
きっかけは博士論文指導の副査を特例的に依頼されたことである。依頼主は日本画家の作家である中村恭子、展示を企画したギャラリーオーナーは今世紀最大の無名の画家と評する。彼女の博士論文を指導を担当する中で、創造性、当事者性、知覚や認識などについて議論を深め、共同研究をするまでに関係性は発展していった。
そして、中村は飲み会で、著者が箸袋やおしぼり袋を、無意識にちぎっては丸めて並べているところを目にし、著者の制作のセンスを見出した。
ただ並べる、しかしそれはまったく出鱈目なものではない。それはある種のセンスだ。ただ並べてみる。それは何か、できるんじゃないですか
そうかもしれない、と間に受けた著者。やらねば、なるまいと思い込んだ。そして、「ただ、並べる」制作をスタートする。
しかし、手を動かす前に、あれこれと考える。本書の一番面白く、そして難解なところである。箸袋をちぎって並べることは、今までは無意識でやっていたことだが、さあ作ろうと意識してしまうと、並べられなくなる。何を並べ、どのように並べるか、能動的にデザインし並べるのではなく、徹底的に受動的に並べられるようにするには、どうしたら良いか。著者は外部に触れることにヒントを見出す。そのために、いかにして外部を呼び込むような準備をするかを構想し始める。
内側と外側のような二項対立的な対の中に閉じこもり、それ以外存在しないと信じていた人間が、その外部に触れたことで、何かが「起こった」と言えるとき、それは、外部を契機に「作品化」されたのであり、その意味で、それは本書の意味で天然表現なのである
外側と外部という言葉を使い分けていることがポイントである。外部と外側とは違う。外側とはわたしの知っている内から、想定することが可能な内とつなげられることができる外である。外側は内側の知っていることから可能なものとして想定できることであり、自ずと内に規定される。そして、内と外で構成される全体は想定可能性によって閉塞している世界である。それに対し、外部は自分の内側と外側の成す全体からは窺い知れない、その全体の外に位置づけられる。外部は可能なものとして想定できない、できたとしても存在を直観的に感じる、くらいのものである。
ではこの外部に触れるには、どうしたらよいのだろうか。この外部と作品を創ることはどのような関係になるのだろうか。先に答えを伝えるならば、創造行為、死を感じること、トラウマからの癒しの3つである。これにより外部を感じ、触れることになる。作品を創ることは創造行為にあたる。この3つに至った思考経路は本書で確かめて欲しい。
面白いポイントは他にもある。ランチにラーメンか蕎麦に思い悩み、二者択一だと思っていたところに、帰って寝るという選択肢が突如現れた。いかにして現れるのか、これこそが創造のヒントであり、考えるに足る問題であると真剣に向き合い、トラウマとの共通点を発見する。かと思えば、現代アートの創始者とも言えるマルセル・デュシャンの「泉」の分析を通じて、作品における意図と実現のギャップについて議論する。そろそろアートの話を深めるのかと思ったその矢先に、再びラーメンの話題になる。
というように、卑近なほどに具体的なエピソードから、抽象度に磨きがかけられた理論や構造に飛躍する。そして、往還が繰り返される。、具体例から構造や理論をなんとなく類推できるから、本書を読むために前提知識は一切いらないし、冒頭で著者もそのように記している。ただし、この抽象と具体のジャンプの幅の大きさの副作用はある。わかったつもりになって読み進められると同時に、読後に何もわかっていないような気持ちにさせられることである。
本当に理解をしたいなら、論理を丁寧に追いかけながら、粘り強く読む必要はあるだろう。しかし、本書を読むこと自体が、創造性という概念の内側と外側の全体から飛び出し、外部に出ることであると考えるなら、まずは触れるだけでも良い。揺さぶられること間違いなしである。