大切なことはいつも“向こう側”からやってくる。不意に、思いもよらないタイミングで。
今年の夏はひさしぶりに一家で旅をした。行き先は香川。家族旅行はコロナ以降ご無沙汰だったので、てっきり海外にでも行きたいと言い出すものとばかり思っていたが、妻と子どもたちで話し合ううちに、どういう流れか「本場の讃岐うどんの食べ歩きがしたい」と盛り上がったらしい。
そうと決まれば、あとはコーディネーターの出番である。うどん店は、懇意にしている渋谷の居酒屋店主が丸亀出身なのを思い出し助太刀を頼むと、こころよく充実したリストを作ってくれた。加えて、せっかく香川に行くのなら、うどん以外にもぜひ体験してほしいものがあった。アートである。
香川には見るべき美術館がいくつもある。中でも丸亀市の猪熊弦一郎現代美術館は、全国でも珍しい「駅前美術館」だ。設計は谷口吉生。駅を出て、巨大オブジェが設置された開放的なファサードを目にすると、思わず声が漏れるほどのインパクトがある。その日は、このユニークな建築を体験するついでに猪熊の作品も鑑賞するか、くらいのノリで立ち寄った。
そこで思いがけず、中園孔二の絵と出合ってしまったのだ。
たまたまやっていた企画展『中園孔二 ソウルメイト』を、なんの予備知識もなく観た。圧倒された。会場を埋めつくす作品からは凄まじい創作のエネルギーが伝わってくる。例えばそれは横尾忠則や大竹伸朗の膨大な作品を前にしたときに感じるものと同種のものだ。描いて、描いて、描きまくる本物の画家だけが発するアウラが、会場中に横溢していた。
明るい絵、暗い絵、どの作品にも暴力と恐怖、ポップと慈しみが同居しているように感じられた。そこにはまぎれもなく、私たちが生きている「今」が描かれている。現代アートには美術的教養のようなコンテクストを踏まえないと理解できないものも多いが、中園の絵はダイレクトに観る者を揺さぶる。頭でっかちな秀才が拵えたちまちました現代アートとはモノが違うことは、自分のような美術の素人でもわかった。
中園孔二とは何者なのか。25年の短い生涯は、まさに光芒一閃とでも呼ぶべきものだった。本書は家族や友人、恋人などあらゆる関係者への取材と、中園が遺した150冊ものノートをもとに書かれた評伝である。中園の絵と同じように読む者に忘れがたい印象を残す一冊だ。
中園孔二(本名:晃二)は1989年、神奈川県横浜市で生まれた。両親と3歳離れた兄との4人家族。地元のスターである田臥勇太に憧れて小学校から高校まではバスケットボールに打ち込むが、高校2年生の6月、突然「絵が描きたい」と言い出し、自室の壁に絵を描き始める。ほとんど徹夜で天井から壁から部屋一面を絵で埋めつくした。母親によればそれは「絵のマグマが噴き出すみたい」なものだったという。
それまでバスケに注いでいた情熱をすべて美術に向けるようになった中園は2008年、東京藝術大学美術学部絵画科油絵専攻に現役で合格する。この年に現役合格したのは、定員55名のうちわずか8名だった。この時の二次試験の課題について、美大受験予備校から試験で描いた絵を再現してほしいと依頼された際、父親に「そんなことできるのか」と聞かれた中園は、「最初の点ひとつから、最後の線まですべて順番もわかる」と答えたという。
こうした才気走ったエピソードをもとに、中園の生涯を〈夭折した天才画家〉といった物語にまとめあげるのは容易い。だが作者はそれを選ばない。初めて中園の絵を見たときに抱いた「わからない」という感覚にこだわり、中園を知るためにあらゆる関係者と会い、話を聞いていく。彼ら彼女らの言葉によって、まるで一枚の絵が出来上がっていくかのように中園孔二という人物の輪郭が浮かび上がってくる。
藝大で中園を教えた画家のO JUN(オー ジュン)は、学生を見るとき、作品の良し悪しよりも「衝動」を重視するという。要は描き続けることができる身体を持っているかということだ。藝大生はプライドが高く、「美術家です」という顔をする割には制作量が追いついていないことが多いという。中園はその点を軽くクリアしていた。
なぜ量を重視するのか。それは〈作品によって救われた〉という経験が作家にとって大切だからだという。描く量が多ければそれだけ可能性も高くなるし、いちど救われた経験があるとさらに経験の水準をあげようと制作に打ち込む好循環が生じる。
中園も描くことによって救われたのかもしれない。ある同級生は、自身の希死念慮を中園に打ち明けた際、「俺は、そういう人のために絵を描いている」と言われたと証言している。それは中園自身のことでもあったのだろう。本書は中園がある時期、かなり深刻な対立と葛藤にさらされていたことを示唆している。
そうした辛い体験が創作の衝動のベースにあったが、あの独特の絵は、中園の身体性があってこそ生み出されたものかもしれない。元恋人は、中園にはすぐに何かを確かめるようにして触る癖があったと振り返っている。夜になるとひとりで山へ入り、森の中をさ迷うことも好んだ。暗いトンネルを歩いたり、線路にうずくまりレールを伝わってくる音に耳を澄ませたりした。
このように全身で自分の外側に触れようとする行為は、描くこととどうつながっていたのだろう。
中園はこんな言葉を遺している。
「自分は誰かの描いた“絵”を見れば、描いた人間がその人が何から逃げているのか、あるいは、何を“知らない”のか、がわかる。絵は、それを作る人間がどこかへ行く時に、体が進んでいる瞬間に現れ、とどまる。体が初めて出合う外気との摩擦のようなものである。すでに知っている空間の内部では摩擦は起こらない」
「表現力=見えないものを見ることのできるものとして現象界に持ち帰ってくることのできる力」
中園は自分の“向こう側”へと手を伸ばし、そこからやってくるものに触れようとしていたのではないか。それは、それまでの自分を新しく生まれ変わらせてくれるような何かであり、自分自身を救うきっかけとなるような何かだった。その接点から作品が生まれた――。
2014年暮れ、新たな創作の場を求めて中園は高松市に移り住む。そして翌年夏、海で亡くなった。
市内から約17㎞離れた海沿いの岩場で、釣り人が、残されたTシャツや靴、携帯電話、紙パックの麦茶、文庫本の『カラマーゾフの兄弟』上巻などを発見し、警察に通報した。警察によれば、7月21日にひとりでコンビニに立ち寄る姿が防犯カメラに残されていたという。中園は28日、対岸の岡山県玉野市の海域で発見された。警察は事故死と判断した。
旅の最終日の朝、高松港を妻と散歩した。波がほとんどないことに妻が驚いている。瀬戸内の海は水深が浅いため穏やかなのだ。前の晩に行った料理屋で店主が「ここは赤身のでかい魚がいないもんで、白身ばかりですが」と言ってお造りを出してくれたのを思い出した。だが浅くとも潮の流れは速い。だから流れに揉まれて瀬戸内の魚は旨くなる。
港のシンボルの赤い灯台へとまっすぐ伸びる道を歩く。堤防の先には、桃太郎伝説の鬼ヶ島として知られる女木島が見える。「目の前にあるみたい。どれくらい離れてるのかな?」と妻が言った。「3~4㎞ってとこじゃない」などと答えながら、(そうか、島に行こうとしたのか)と思った。
中園の荷物が残されていた岩場の先には、小槌島という無人島がある。距離は300メートルほどというから文字通り目と鼻の先に見えたはずだ。いつものように、ふらりと森に入るような感覚で、中園は島に行こうとしたのではないか。目の前の海は、星明かりに照らされ、波ひとつない。歩いても渡れそうに見えたかもしれない。だが潮の流れは速かった……。
その時、“向こう側”に中園は何を見たのだろう。
本書の特筆すべき点はインタビューの素晴らしさだ。取材に応じた人々が皆、中園のことを知ってほしいと真摯な思いで語っていることが伝わってくる。インタビューを重ねる中で、「初めて人に話します」という言葉を著者は何度も聞いたという。中学時代の担任は、進路に関する個人面談が忘れられないと振り返る。
「中園君の順番になった時、彼はバスケットの部活中でした。短パン、ランニング姿でダダダッて走って帰ってきて、汗だくなんです。座りながら、『はい、先生』ってペットボトルのお茶を私に差し出してくれた。そのことを思い出すと、今でも泣けてきます。(略)『先生、ずっとしゃべり続けて疲れているでしょ』みたいなことを言ったんだと思います。本当に参っちゃいましたよ。困るんです。すごく困る。そんな子、いないですよ。三十年教員を務めても、他にいません。あの人の作品がどうのこうのっていうよりも、中学の時そんなことができた少年がこの世からいなくなってしまうなんて、そのことの不条理を思います。(略)」
彼女の中では、その時の汗の光り方まですべてが、いまも鮮やかな記憶として残っているという。こうした証言を目にするたびに、中園の存在が生々しい肉体性を帯びて迫ってくる。ひとりの人間が確かにこの世に存在したのだ、生きていたのだと感じられる。こんな評伝は稀だ。
シュテファン・ツヴァイクの〈星の時間〉という言葉を思い出す。
ツヴァイクは歴史上の天才たちが活躍した時代を〈人類の星の時間〉と呼んだが、中園が駆け抜けた25年の生涯もまた〈星の時間〉と呼びたくなるような輝きを放っている。
星は寿命を終える時、ひときわ明るく輝くという。中園が遺した作品も、夜空を照らす一等星のように、これからも光り続けるだろう。
中園の初めての画集『見てみたかった景色』。